教養ある理想的な女性をなぜ妻にしない? と矛盾を突いた清少納言

容姿端麗、心優しく、字も上手に書き、和歌も上手に詠む非の打ち所のない女が、ひそかに思いを寄せ、恨みの手紙をよこしたりするとき、男は、いちおう返事はするけど、結局そういう女とは一緒にならないで、取るに足りない女を妻にしてしまう。あきれて、歯がゆい。どうも男心はわからない。

男は、古物語などを通し、理想的な女像を創った。そのとおり、いうことない美人で、しかも優しい「心美人」、女の教養どおり、手を習い、歌をマスターしたのに、男はそれを見棄てて、取るに足りない女を妻にする。「たで食う虫も好きずき」というけれど、いくらなんでもおかしいじゃない!

なんだか、今でも通用しそうな男論である。

清少納言は、このような女の目からみた社会批判を随所にちりばめていてくれる。道綱母の時代よりも、およそ半世紀後、家柄が確立しつつあり、身分を越えた愛を貫く男たちは少なくなった。また、男たちが理想として創りあげた女像に身を任せても、けっして女にとって幸せが約束されてはいない。短い文のなかに、身分社会における女と男の関係を、凝縮しているように思われる。

9世紀ころまで、性愛においても、男女は対等に近かった。しかし、清少納言が生きた時代は、男優位、家柄主義、身分社会になっていた。それを打ち破りたい、と思っていたのではないか。清少納言もけっして身分を超越しようなどとは思っておらず、自身より地位の低い男女には手厳しい、という限界はもちろんもちつつも。

「宮仕えをする女も男と同様に働いているだけなのに」という不満

女房勤めを批判する風潮にも、一石を投じる。

平凡な結婚をして人妻となり、将来の希望もなく、ただまじめに、夫のわずかな出世を幸福と心得て夢見ているような女性は、うっとうしくつまらぬ人のように思いやられて感心できない。やはり、相当な身分のある家の子女などには、宮中に奉公して、社会の様子も十分見聞きさせ、習得させてやりたいと思う。宮仕えする女性を軽薄でよくないことのように思ったり、いったりする男性がいるが、そんな男はまことに憎らしい。

たしかに、宮仕えをしていると、天皇、皇后をはじめ公卿、殿上人、四位などはいうまでもなく、身分の低い女房の従者どもや、里から来る使者、長女おさめ御廁人みかわやうどまで、直接顔を合わすことになるが、男だって宮中でお仕えしている以上、同じではないか。宮仕えの経験のある妻が典侍と呼ばれて、時折参内したりするのも名誉あることではないか。また受領の五節舞姫献上の折りなど、妻が宮仕え経験者であれば、人に聞いたりせずにできるではないか。
(『枕草子』「生ひ先なく、まめやかに」の段要約)
「枕草子絵巻」(部分)鎌倉時代(画像=CC-PD-Mark/Wikimedia Commons