浮気な夫が来ないことを妻が嘆くと、夫たちは自慢した
ねざめする やどをばよきて ほととぎす いかなるそらに かきねなくらん
これは、『一条摂政集』である。一条摂政とは、兼家の兄藤原伊尹である。「うへ」とは、北の方とも書かれる醍醐天皇孫、代明親王の女、恵子女王のこと。野大弐、すなわち小野好古の娘である野内侍の所に入りびたって、久しくこないので、「いつまでもねむれずに声を待っている私の家はさけて、ほととぎすは一体どこの空で楽しそうに鳴いているのでしょう」と詠んでいる。夫にとっては、多くの女のもとに通い、妻に恨みの和歌を詠ませる方が、むしろ名誉である。誇らしげに、私家集にかかげられている。
こんな和歌と、少し長い詞書だけでは、自身の半生をほんとうにみつめることはできない。多くの女を渡り歩く夫への恨みつらみを書くことはできない。そんなものは、こうして男に回収されてしまうのだから。
また、古物語は、男性作家が、女の道徳的観念や、女の幸福感を書いた、女の教養的物語でしかない。女たちが、自身の体験を見据え描くことでしか、ほんとうの女を表現することはできない。実際に起こった高貴な人々との交流の誇らしさだけでなく、自身の喜びを、苦悩を、第三者的目でみつめること、それでこそ多くの女たちが追体験し、共感を得ることができる。いわば人間の哀歓を、理解してもらえるのではないか。古物語にはない、人間の真実が描けるのではないか。道綱母の意図はそこにあったと思われる。
自己主張する女、道綱母は、多くのメッセージを文学に昇華しつつ、千年先の私たちにのこしてくれたのである。
洗練された文章で鋭い社会批判をした清少納言
もうひとつの女の自己主張、『枕草子』もまた、新しいジャンルである。類聚的章段、日記的章段、随想的章段、どれもこれも絵画的で短い洗練された文章であることは、多くの指摘がある。ここでは、清少納言の目からみた社会批判を取りあげたい。まずは、男へのメッセージである。「男こそなほいとありがたくあやしき心地したるものはなし」には、こんな訳をつけてみよう。
男よ、高嶺の花でも、死を賭しても恋を貫け。たとえかなわぬ深窓の姫君でも、美人の誉があるなら、アタックしてみよう! 女からみてダメな女をどうして恋人にするの?