花形扱いされる男性記者も私生活では社会の一員ではない
日本の新聞社では、入社早々警察回りになり夜討ち朝駆けをさせられ、自分自身の生活は、かなぐり捨てて生きることに慣れさせられる。専業主婦の配偶者や親族に支えてもらうか、独身でないと、持続可能な働き方はではない。つまり、生活経験が乏しく、社会の一員でありながら社会の一員として暮らしていない。
経験者採用も増えているが、彼らが持つ異なる文化を組織に取り入れようとするというより、彼らが既存の文化に染まり、溶け込むことが求められる。多様な人材の均衡が基本、という立て付けになっていない。
一方で、若手でも、名刺1枚で首長や官僚のトップ、大企業社長と会うことができる。一般人が入れない場所にもアクセスできる。その際の取材相手も男性が中心。花形とされる永田町や霞が関などの取材現場はそもそも、男性優位の牙城のようなところだ。決定権を持つ場に女性がいないのが当たり前で、新聞社内でも同じ風景が広がっていることに違和感を持たない。
新聞記事を作る編集部門がエリートの特殊な社内構造
記者の社内での立ち位置も特殊だ。通常は企業内に社業を支える多様な部門が並立している。だが新聞社では編集部門が他を圧倒しており、記者出身でない者が社長になることは、ふつうない。外部を含めたチームで動くテレビ局や、企画者としての側面も強い出版社と違い、新聞記者は1人で動くことが多い。他社との競争に常時さらされているため、精神的にも体力的にもタフであることが期待される。唯我独尊になりやすい環境だし、「岩盤のような男性主観」という一元的な価値観がすんなりと入り込みやすい組織構造になっている。
そして花形の当局回りでキャリアを積んだ男性記者が管理職に登用され、組織の中枢に据えられる。彼らが良しとする、つまり「岩盤のような男性主観」を反映したニュースが紙面の中心を飾っていく。「どこから探し出したかわからないような、一般の人たちの話から出てきたニュースではなく、記者クラブに所属しなければ取れない情報にこそ、希少価値があるという暗黙の了解がある」と吉永氏は指摘する。
その結果、そうした「岩盤のような男性主観」から外れたような話、たとえば性暴力や選択的夫婦別姓などの問題は、それほど重要ではないと見られる。「記者が頭を下げて、何度も頼まないと載せてもらえないようなことも起きている」と吉永氏は言う。“やらせてもらうジェンダー平等”というわけだ。