功績を誇り、自己PRに長けたしたたかな一面もあった

さらに晴明は、中止された追灘を私宅で行ったら、京中の人びとが呼応して、あたかも恒例のようであったと、明法博士みょうぼうのはかせ惟宗允亮これむねのただすけに自慢げに伝えたり、あるいは一条天皇のために勤めた御禊ごけいしるしがあったことを、藤原実資さねすけにわざわざ報告したりするように、晴明自身が自らの陰陽師としての功績を宣伝してまわっていたという、したたかな一面も見いだせる(歴史学者・繁田信一氏による)。

「道の傑出者」「陰陽の達者」という人びとからの賞賛は、彼の実力であるとともに、自分を優れた陰陽師として喧伝けんでんしていった背景が想像されるのである。このように貴族社会に広がっていく安倍晴明の「名声」が、後の伝説化のベースになったことは、充分考えられよう。

宗教家としての才覚があり、名声を得たが同業者とは対立

斎藤英喜『陰陽師たちの日本史』(角川新書)

もう一度いえば、晴明が「陰陽師」として貴族社会で活躍したときは、すでに彼は陰陽寮から退官し、他の役職についていた。それは個人救済を担う「陰陽師」が、律令国家組織の陰陽寮とは別枠で活動していくことを暗示している。陰陽師としての安倍晴明は、陰陽寮の役人としてではなく、彼の個人的な技能や呪力で貴族たちとの私的な関係を結び、その救済を担った、まさにひとりの「宗教者」として生きたのである。ここにこそ安倍晴明の立ち立置を見定めるべきだろう。

いいかえれば呪術職能者、宗教者としての陰陽師であるからこそ、儀式の先例に従うことなく、自分の判断で新しい作法やワザを編み出していくのだ。それは自分の師匠筋にあたる賀茂忠行かものただゆきや、兄弟弟子となる賀茂光栄みつよしとのあいだにも、指導や伝授、尊敬や従順・協調といった関係に収まらない、まさにワザと術に生きるものとしてのシビアな関係をも作りだすことになるのである。

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