四女は姉の息子である親王に嫁し、19歳で出産時に死去

気の毒さという点では、四女の嬉子も似ている。彼女は姉・彰子の子である東宮敦良親王(後朱雀天皇)の妃となっている。東宮より2歳年上だったが、万寿2年(1025)、親仁親王(後冷泉天皇)の出産のおり、19歳で没した。この後に後朱雀に入内したのが禎子内親王(三条天皇の皇女)で、天皇との間に尊仁たかひと親王をもうけた。後三条天皇である。その後三条の登場で時代は大きく変わる。その点で嬉子の死は、禎子内親王の入内をうながし、皇統の異なる流れを登場させることに、繫がった。

第二夫人高松殿・明子の子女たちについて触れる。嫡妻・倫子との相違はあきらかだったが、他方で倫子系とは異なる非嫡流の意地も見られた。男子たちの流れのなかには、院政への橋渡しに繫がる動きもあった。

まず、長子・頼宗から。倫子所生の頼通・教通に比べ、昇進は遅かった。右大臣が極官ごくかんだった。後朱雀天皇には娘・延子を、後三条には昭子を入内させたものの、皇子には恵まれなかった。堀河右大臣と称し、和歌の名手として知られた。

次に顕信だ。19歳のおりに皮堂かわどう行円上人ぎょうえんしょうにんのもとに赴き出家、比叡山無動寺に登った。

父・道長も顕信の出家には驚きを隠さず、その様子は『大鏡』にもしるされている。また臨終にあっては仏の夢想を得て入寂にゅうじゃくしたとある(『栄花物語』〈たまのかざり〉)。

『紫式部日記絵巻』の一部、藤原道長(画像=藤田美術館所蔵/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

第二夫人の子女たちは第一夫人の子たちに遠慮していた

三子は権大納言能信だ。官歴云々は別にして、この人物は異母兄・頼通に対抗したことでも知られる。この点に関しては『愚管抄』(巻四)や『今鏡』(巻一)にも詳しく見えている。後朱雀天皇に入内した、中宮禎子内親王(三条天皇皇女)の中宮大夫の地位に能信はあった。後朱雀天皇病没の直前、天皇には第二皇子尊仁たかひと親王(後三条天皇)がありながら、頼通に遠慮し、皇太子の件を遺言できなかった。その雰囲気を察した能信は、尊仁親王への譲位を強力に推し進めたことが諸書に見える。

能信は東宮となった尊仁の東宮大夫として活躍した。後三条から皇位を継承した白河しらかわ天皇は、自身が今日あるのはこの能信のおかげだとして、「大夫殿」と敬称したという。右の件は、道長没後のことではあったが、嫡流の頼通・教通と対抗した人物として、記憶に残る。院政の源流となる後三条天皇への道筋をつけた人物として留意される。

そして明子の四男たる権大納言長家だ。行成の娘や斉信の娘と結婚するが、いずれも死別した。歌人として著名で御子左みこひだりと号したその家系は、(編集部註:歌人として有名な)俊成・定家に繫がる。