同じ内容の本も読む人の姿勢や心持ちで意味が変わる
フランクルの『夜と霧』について少し触れたいと思います。
じつは、この『夜と霧』という本を、私は大学生のときに一度読んでいました。ただ、当時は、誰かに勧められて読んだものの、強制収容所のあまりの凄惨さに、つらすぎて全部を読み切れませんでした。正直に言えば、あまりにも多くの人がただただ死んでいく様子に耐えられなかったのです。
当時の印象はその程度のものでしたが、37歳になって読み直したときは、これを自分の身に照らし合わせて、食い入るように読みました。これが本の不思議なところで、書かれている内容はまったく同じなのに、読む人の姿勢や心持ち、置かれている環境などが変わることで、本の持つ意味がまったく変わってくるのです。
たとえば、以前の私のように、試験のために本を読むというのは、ある意味では「人から評価してもらう」にはどうしたらよいかを考え、そのために一生懸命本を読むということです。つまり、「自分が何をしたいか」に思いが至っていません。
でも、他人のことはどうでもよいから、「自分はどう思っているんだ?」と考え、そこに焦点を当てて本を読み始めると、本の読み方がまったく変わってきます。「この本を読みなさい」と言われて読む本と、自分の心のアンテナに引っかかって、「この本、おもしろそうだ」と感じて読む本とでは、まったく別の体験なのです。
出会いのタイミングが重要
出会いのタイミングも重要な要素です。これは人についても言えることですが、「このタイミングで出会わなければ、この人とは付き合っていなかっただろう」、あるいは「別のタイミングで出会っていれば、本当はこの人とは仲よくなれたかもしれないのに」ということは、誰しも覚えがあるでしょう。
それと同じで、私も37歳のときに深く悩み、考え、苦しんでいなければ、『幾山河』や『夜と霧』には出会えていなかったでしょうし、その後も「自分だけの一冊」に通ずる入口は閉ざされたままだったかもしれません。
つまり、自分の側に受け入れる準備ができていなければ、どんなによい本であっても素通りしていってしまうし、「自分だけの一冊」には巡り合えません。逆に、本気で求めていれば、そうした本と不意に出会うことがあるのです。