矢田部教授はアメリカ・コーネル大学で学んだエリートだった

矢田部良吉は嘉永4年(1851)伊豆国(静岡県)の生まれ。ジョン万次郎(中浜万次郎)や大鳥圭介に英語をならい、開成学校(東京大学の前身)の教員をへて外務省の事務官となった。明治3年(1870)、森有礼(後に伊藤博文内閣で文部大臣)がアメリカ公使として赴任する際に同行して渡米しコーネル大学に留学、植物学を学んだ。

当時アメリカ有数の植物学者だったA・グレーからも指導を受けたという。明治9年 (1876)に帰国し、その翌年、東京大学の創設とともに初代植物学教授となった。同じ生物学の分野でも、当時の動物学教授はE・モース、C・ホイットマンと御雇外国人が2代も続いたのに、日本人の矢田部が初代の植物学教授になったのは、その実力が認められたからだろう。

矢田部の講義はすべて英語で行われたというが、彼には「洋風」が似合った。鹿鳴館に通う常連であり、「新体詩」にも名を残している。ちなみに富田仁『鹿鳴館――擬西洋化の世界』(白水社)には、仮装舞踏会で大黒姿に扮した矢田部の写真がのっている。

出典=『牧野植物図鑑の謎』(ちくま文庫)

牧野を追い出した翌年、矢田部も東大教授を罷免される

しかし矢田部は明治24年(1891)に突然、東京大学を「非職」となってしまい、後に高等師範学校の校長となったが、明治32年(1899)、鎌倉で水泳中に事故死してしまった。矢田部が牧野の教室出入りを差し止めたのは、自ら『日本植物図解』(1891~93)を編纂するためだったが、これは3号まで出て中断してしまった。

その中には、弟子に先に発表されてしまったトガクシショウマが自分の名にちなんだYatabeaの属名で記載されている。そのほかにA・グレーの植物学教科書を訳した『植物通解』(文部省1883)がある。また生前の矢田部は、文部省から一般初心者向きの植物図鑑の編集を依頼されていたが、志半ばで急死したため、没後に未完成の遺稿が『日本植物編』(1900)としてまとめられた。もしこれが完結していれば、近代的な植物学に立脚した日本最初の普及型植物図鑑となったかもしれないが、掲載数は427種で終わってしまったのが惜しまれる。

矢田部の後をついだ松村任三は、矢田部の印象を「真に泰西理学者たるの風采を具え……言語、風采、恰も外人に彷彿たり」と書き残しているが、そのようなハイカラな矢田部と田舎出の牧野では、性格が合わなかったかもしれない。それに大学が創設されたばかりのころは部外者が大学に出入りできたとしても、しだいに大学としての組織や管理体制が整ってくると、牧野のような部外者に自由な便宜を与えることが難しくなる、という事情もあって、矢田部は牧野の教室出入りを禁止したのであろう。