矢田部の没後も牧野は仕打ちを忘れず痛烈に批判した
しかし牧野は矢田部の仕打ちに納得できず、矢田部の没後にも対抗心を失わなかった。幕末から明治時代に西欧の学問を導入したときには、それぞれの学問分野で学術用語をどのように訳したらよいのか、多くの人が試行錯誤を重ねたのはやむを得ない。矢田部が訳した『植物通解』でも、いくつかの学術用語に新訳が導入されていたが、これは近代日本の中等・高等教育での標準的な植物学教科書としての地位を獲得したため、それ以前の本で勉強したことのある学生にとっては、戸惑いを感じる訳語も交じっていた。
そのため牧野は、「明治16年に文部省で矢田部氏の訳したのを出版したのが、『植物通解』であります。この時に同氏は充分に古書を調べる事なく、別に訳語を作った者多く、この書が1時中学校の教科書となり、全国の書生に読ませることとなったので、……『植物通解』を訳語の基本とすることは私は賛成が出来ぬ。前にも述ぶる如く通解の著者は訳述当時慎重の態度を欠き、前人の善良なる訳語を没却して、却ってまずき訳語を製し、我が意を貫きしもの少なくないのである」(『植物集説』上巻)と批判している。
これなどは、一介の書生が大学教授に対抗する、「横綱と褌かつぎ」の勝負に執念を燃やし続けた牧野が、矢田部の没後に「江戸の敵を長崎で討つ」心理を働かせたものかもしれない。