日本人が学名をつけた第一号「ヤマトグサ」は牧野の発見
牧野は明治17年(1884)に郷里の高知県で新植物を発見し、これにヤマトグサと命名した。やがて牧野は大久保三郎とともに、これにラテン語の学名を付して『植物学雑誌』(1889)に発表した。大久保は、アメリカとイギリスで植物学を学んだ経歴をもち、外国語に堪能だった。それまで日本の植物は日本人が新発見したものでも、後出のC・マキシモウィッチなど外国の植物学者に依頼して学名をつけてもらっていたが、このヤマトグサが日本の学術雑誌で日本人自身が学名を発表した第1号である。
ヤマトグサに続いて三好学がコウシンソウ、矢田部教授がヒナザクラなどに学名を与えた。また矢田部は「泰西植物学者諸氏に告ぐ」という英文の論説を『植物学雑誌』(1890)に発表し、日本の植物学研究も軌道にのってきたので、これから発見される日本の植物は、欧米の植物学者に鑑定を依頼しなくても、日本人自身で学名をつけることができると宣言した。
日本初の本格的な植物図鑑『日本植物志図篇』を計画
このような日本の近代植物学の黎明期にあって、牧野は「日本植物誌」の編纂に力をそそいだ。その結実したものが明治21年(1888)から刊行され始めた『日本植物志図篇』(図表1)である。これは牧野が「自ら手を下して真物より模写」した大型の精密でみごとな植物画集である。しかし印刷には多額の経費がかかり、それはすベて牧野が実家から送金してもらった金を工面しての自費出版だった。
各集に数種類の植物を収録した分冊形式の息の長い仕事であるが、近代的な日本の植物図鑑の出発点ともいうべきものとなり、関係者から高く評価された。ドイツ留学から帰ったばかりの新進の植物学者松村任三も、「今日ただ今、日本帝国内に本邦植物志図篇を著すべき人は牧野富太郎氏ひとりあるのみ、……続編を出版して本邦所産の植物を全璧せんの責任を氏に負わしめん」と『植物学雑誌』で激賞した。
牧野は近代的な教育を受ける機会がなかったが、上京して東大植物学教室への出入りを許され、数年の努力を続けるうちに専門家をしのぐほどの実力をつけ、頭角を現わしたのである。