「軽井沢の空気は自由にする」政治空間としての軽井沢
政治空間としての軽井沢については、政治学者の御厨貴が『権力の館を歩く 建築空間の政治学』(ちくま文庫、2013年)や『権力の館を考える』(放送大学教育振興会、2016年)で詳しく取り上げている(双方ともに同じ文章)。
だから「軽井沢の空気は自由にする」といった雰囲気が醸成されていった。権力者の館も高い塀で囲いこむことなく、広大な敷地と木々の中に点在する館といった開放的なイメージである。〔中略〕東京での身分や立場を一瞬忘れ去り、軽井沢別荘族としての絆の中に、自由と平和が享受される空間が演出される趣なのだ。そこで交わされる会話は、サロン風に世相批判から社会批判、それが高じて時に政治批判となることもしばしばであった。
(前掲『権力の館を歩く』)
夏に東京から集う人々による「軽井沢別荘族としての絆」
御厨が言うように、軽井沢の特徴は夏に東京から多彩な人々が「集中移動」し、比較的狭い区域に滞在することで、「軽井沢別荘族としての絆」が生まれるところにあった。重光自身、「軽井沢は夏の東京とも云はれて帝都に於ける知名の士が七、八、九月のある期間殆ど此の地に来ない人はないと云つても差し支ない位であつて、外国人は遠く支那、香港、マニラ等から避暑に来り、夏期の国際都市の観を呈する」(「霧のろんどん 続篇」、『続 重光葵手記』所収)と述べている。
政治学者の佐藤信によれば、歴代の首相のなかで初めて軽井沢に別荘を構えたのは桂太郎だった(『近代日本の統治と空間 私邸・別荘・庁舎』、東京大学出版会、2020年)。「桂園体制」と呼ばれる体制を築いたもう一人の首相、西園寺公望とは、軽井沢で会談している。ほかに大隈重信や近衛文麿も別荘を構えたが、大隈が別荘を建てたのは首相を辞めてからだったのに対し、大正末期に別荘を建てた近衛は首相在任中の夏に軽井沢に滞在する習慣を続けた。第二次近衛内閣を組閣する1940年7月には、軽井沢で政治学者の矢部貞治らとともに陸軍を抑えるための「近衛新体制」の構想を練っている(『矢部貞治日記 銀杏の巻』、読売新聞社、1974年)。