「私一人が腹を切れば、みなを助けることができる」
小牧・長久手の戦いで和睦を結んだあとも、秀吉は家康に対して、さまざまな形で、臣下の礼を取るように、と働きかけてきました。
家康は拒みつづけますが、1586(天正14)年、秀吉は実の妹・旭姫(朝日姫とも)を家康の正室として差し出すと公表。家康はこれを受け入れ、5月14日に浜松で祝言が行われます。
さらに、この年の10月、秀吉は妹・旭姫の見舞いとして、生母の大政所を家康の許に送る、との書状を出しました。
ここまでされては、いかに用心深い家康も、臣従の挨拶に出向かないわけにはいきません。家康は上洛を決意しますが、この時、酒井忠次以下、主だった家臣たちはなおも、家康の上洛に反対しました。
すると家康は、
「私が上洛しなければ、秀吉との仲は必ず断絶する。そうなれば、秀吉は全力で攻め寄せてくるだろう。皆が善戦したとしても、家臣にも領民にも大きな犠牲が出ることは必定だ。
しかし私一人が(最悪)腹を切れば、みなの生命を助けることができる。それが私の役目だ」と言って、家臣たちを納得させたといいます(『名将言行録』意訳)。
この年の10月24日に上洛した家康は、27日に大坂城で秀吉に拝謁しています。ようやく家康を取りこめた秀吉は、12月、太政大臣となり、「豊臣」の姓を後陽成天皇(第107代)より拝領(前年9月説もある)。関東・奥羽の諸大名に、戦闘行為の停止=惣無事令を出しました。
その行為はまさに、天下人としてのものであった、といえるでしょう。