※本稿は、加来耕三『徳川家康の勉強法』(プレジデント社)の一部を再編集したものです。
小牧・長久手の初戦・羽黒陣で秀吉軍が負けたワケ
1584(天正12)年3月、事態は急に動き始めます。
徳川家康は尾張へと進み、清州城で織田信長の次男信雄と合流し、軍議を練り、小牧山城に進んで堀を深くするなどの修復を施して本陣とし、尾張羽黒に陣を進めてきた秀吉方の池田恒興、その娘婿の森長可らの部隊と激突します。「羽黒の陣」と呼ばれるこの戦いでは、家康方の先鋒である酒井忠次、奥平信昌らが迎え撃ち、秀吉方を打ち負かしました。
この時期、羽柴(のち豊臣)秀吉本人は、まだ大坂にいて、「自分が着陣するまでは手出しは無用」と厳命していましたが、なにぶんにも秀吉軍は混成部隊であり、秀吉と恒興の関係も、上下関係ではなく、いわば元同僚のようなもの。恒興は、たとえ秀吉の軍令を無視しても、「なに、攻め取れば、秀吉とて、よもや怒ることもないだろう」と高を括ってもいたのでしょう。
秀吉軍内部に起きた変化
羽黒での敗戦の報を耳にした秀吉は、家康本陣=小牧山とは2キロ余りしか離れていない、楽田に陣を張ります。
すぐさま家康側の野戦陣地を偵察に出た秀吉は、一望して、家康の野戦陣地が、信長がかつて武田の騎馬軍団に対抗するために考案した、陣形そのままであることに気がついたことでしょう。
「あの人真似め――」
秀吉は舌打ちしたかもしれません。
ならば、と家康の小牧山陣地に対抗して、秀吉は直ちに要所を連環するように砦を築き、空前の大野戦陣形を構築しました。
先に仕掛けたほうが負ける、と互いににらみ合ったままの秀吉と家康でしたが、そうするうちにも、一方の秀吉陣営では小さな波風が立ち始めます。
秀吉陣営は10万(一説には6万とも)の大軍を擁しているのに対し、家康・信雄軍はせいぜい1万6000から7000です。圧倒的な兵力差がありながら、なぜ、家康側をひねりつぶさないのか、という不平・不満が、秀吉陣営の諸将から次第に強く出てきたのは、当然の成り行きであったでしょう。
とりわけ焦っていたのは、先の「羽黒の陣」で秀吉の厳命を破り、独断専行して一敗地にまみれた池田恒興でした。