官僚が国民のための施策を実現できない理由

その人たちは将来の出世のことばかりせこく考えていたようです。出世主義の両親のもとで育ってきて、家庭教師をつけてもらって進学校に行って、ゴルフ部に入って、その先輩に引っぱってもらって中央省庁に行く、みたいな人たちです。

「何のために勉強しとんねん! 世の中よくするためやないんか! そんなんで人生楽しいか!」

と思いました。

「せっかく勉強して東大に合格するだけの能力があるのなら、その力をもっとみんなのために生かそうよ」
「せこい将来設計なんてしていないで、困っている人を助けるとか、もっと世の中を変えていったほうが楽しいんちゃうの」

とも思っていました。

そんな人たちが中央省庁に行っても、「国民」のためのことなんてできるわけがありません。だって多くの国民の実態を知らないのですから。

私はというと、貧しい漁師の家に生まれたことは前述のとおりです。

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父は小卒、母は中卒で、会話で使う言葉も小学生レベルくらいにしないと難しいし、弟は障害者です。でもそういう庶民の生活、また少数者の生活を「肌感覚として知っている」というのは、まちづくりをしていく際には大きな強みになったと思っています。

くり返しになりますが、進学校に行くな、と言っているのではありません。大学だってそうです。ただ、

「試験や家庭の経済力で選別された環境にいるあいだは、見ている世界が狭いかもしれない」

と自覚しておく必要があるということです。

小卒の父、中卒の母の「ハズレ」家庭でも発想の転換次第でうまくいく

「親ガチャ」という言葉をよく耳にするようになりました。たしかに、「ランダムで出てくるので自分では選べない」ガチャガチャのように、生まれてくる子どもは決して親を選べません。容姿や身体能力などの遺伝的なものや、金持ちかそうでないかといった家庭環境も子どもが選べるものではありません。運しだいで「アタリ」か「ハズレ」かが決まる。うまいことを言うものだなと思います。

ただこの言葉は、「親ガチャに当たった」なんて言い方はほとんどされず、あきらめやいらだちをこめて「親ガチャに外れた」などと言われることが多いようです。

私は「親ガチャ」という言葉にはよい面と悪い面の両方があると思っています。

家族内で虐待があるような場合は明らかに「ハズレ」だと言っていいかもしれません。でも実際は、この言葉がそれほど大変でない状況で、「あきらめや自分に対する言い訳のように使われている」ように見受けられます。

私の場合を言えば、貧乏な家庭環境に育ちました。一般的に、これは「ハズレ」と言えると思います。ところが、ここからが発想の転換のしどころです。