信長は諸悪の根源なのか

さらにいえば、戦国時代の戦争は領国の平和を守るのに加え、領国を広げる領土戦争でもあった。そうである以上、ドラマで築山殿がたくらんだ共通の通貨による経済圏や、慈愛による結びつきなど、夢の夢であることは、当時の人ならだれでもわかっただろう。百歩譲って女性が空想するのはいい。しかし、大名やその家臣がその「夢」に同意することなど、ありえなかった。

『どうする家康』では、築山殿と信康はもちろん、家康の家臣たちも、信長と組んでいるために戦争が続く、と思っている。しかし、戦争が領土戦争でもあった当時、だれかが圧倒的な領土を得ないかぎり、戦争が終わらないのはあきらかだった。

家康と武田勝頼との争いが激化していたころ、信長はすでに安土城の築城を開始し、全国統一の道筋が見えつつあった。ところが、『どうする家康』では、信長の覇権が、全国統一につながりそうなほど拡大している事実は見せず、信長と組んでいると戦争が終わらないという一方的な見方だけを蔓延させているのがナンセンスである。

加えれば、高天神城の攻防が長引いたのは、たがいに空砲を撃ち続けたからではない。高天神城が難攻不落の山城で、当時は遠州灘の入り江が山麓まで入り込み、陸路のほか海路からも物資の補給も可能であるなど、攻めるのが困難だったからである。

クーデターに関わっていた築山殿

では、史実の築山殿はなにをしたのか。

彼女が武田と通じたのは「岡崎クーデター」こと、天正3年(1575)の大岡弥四郎事件だったと思われる。『どうする家康』では、築山殿は被害者としてあつかわれたが、『岡崎東泉記』や『石川正西聞見集』には、この事件に築山殿が関わった旨が書かれている。

前者によると、武田勝頼が甲斐の口寄せ巫女を懐柔して築山殿に取り入らせ、巫女に「築山殿を勝頼の妻に、信康を嫡男にする」という託宣を述べさせ、さらに西慶という唐人医師も巻き込んだという。

それだけでは彼女がどの程度、事件に関与したかわからないが、黒田基樹氏は「事件の深刻さをみれば、そこに築山殿の意向が働いていたとしか考えられない」と記し(『徳川家康の最新研究』朝日新聞出版)、平山優氏は「大岡弥四郎事件とは、岡崎衆の中核と築山殿の謀議であり、築山殿の積極性が看取できるのである」と書く(『徳川家康と武田勝頼』幻冬舎新書)。

図版=「松平信康の肖像」(画像=勝蓮寺所蔵/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

息子と共に武田家で生き延びたい

その動機を黒田氏は「この時期、徳川家の存続は危機的な状況に陥っていた。そのため築山殿が、徳川家の滅亡を覚悟するようになっていたことは十分に考えられる。それへの対策として、築山殿は武田家に内通し、信康を武田家のもとで存立させる選択をしたのではないかと思われる」とする(同)。

戦国時代の状況を考えれば、築山殿の判断に違和感はない。とはいえ、それが発覚したとき、家康が看過できる話ではない。正室なので軽々に処罰できなかったにせよ、家康と築山殿の断絶は決定的になったと考えられる

その後、信長の長女で信康の正室である五徳が父に条書を送って、築山殿が武田家と内通していた過去が信長の知るところとなってしまう。すると、天正6年(1578)2月に、築山殿は深溝松平家忠に書状を送り、すぐあとに信康が家忠を訪問している(『家忠日記』)。

いざというときに信康に味方するように、三河(愛知県東部)の家臣たちを口説いて回ったのではないか。そう考えられている。