家光は江の子ではなかった可能性

秀忠が豊臣秀頼の母、茶々の末妹、浅井江と結婚したのは、文禄4年(1595)9月のことで、数え17歳の秀忠に対して江は6歳年長の23歳、3度目の結婚だった。

一般に、江は嫉妬深く、秀忠は恐妻家だったと思われており、このため秀忠はあまり浮気もせず、江が二男五女を生んだとされている。庶出子は長男で早世した長丸と、慶長16年(1611)5月に女中の静が江戸城外で生み、保科家に養子に出された秀忠の最後の子、正之だけだとされてきた。しかし、福田千鶴氏は、そうではないと主張する(『徳川秀忠 江が支えた二代目将軍』)。

慶長2年(1597)5月に生まれ、秀頼に嫁いだ長女の千は、江の子でまちがいない。だが、同4年(1599)8月に生まれた次女の子々は「母は浅井江とされるが、生誕地を考えれば生母は江以外の女性であり、江は表向きの母として位置づけられたものと推考する」と福田氏は記す。慶長4年には秀忠はずっと江戸ですごし、江は12月に京都から江戸に下ったのに、8月に江戸で子々を生めるはずがないというのだ。

慶長8年(1603)、秀頼に嫁ぐ千に同伴して伏見に赴き、7月にそのまま伏見で生んだ三女の初は江の子だが、問題は翌慶長9年(1604)に生まれた竹千代、すなわちのちの三代将軍家光である。

福田氏はこう述べている。「筆者は、竹千代の生母も江以外の女性であったと推考する。その最大の理由は、竹千代誕生の前年の同じ七月に、江が初を出産していることである。いくら年子を生んだとしても、短くとも一年半ぐらいをあけないと平産するのは難しい」(前掲書)。そのうえで、一昔前まで出産した女性に1年くらい排卵がないのは当然だった、といった論拠を並べる。

秀忠と江は、次男国松を溺愛

一方、秀忠が伏見城で将軍宣下を受けた翌年の慶長11年(1606)6月、江は国松(のちの忠長)を生んだ。秀忠が伏見を発って江戸に戻ったのちに江は懐妊しているから、江の子でまちがいない。

秀忠と江が、竹千代を疎んじて国松を溺愛したことは、よく知られる。竹千代は病弱で吃音があるのに対し、国松は容姿端麗で聡明だったとは伝えられる。だが、国松こそが江の実子で、竹千代は奥女中に生ませた子だとしたら、夫妻が国松を寵愛した理由もわかるというものだ。

徳川忠長の肖像(写真=大信寺所蔵『図説・江戸の人物254』より/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

しかも、将軍夫妻が国松をかわいがっていれば、幕臣のあいだにも国松を推す勢力が現れる。こうして竹千代擁立派と国松擁立派による跡目争いのような状況が生じることになった。豊臣公儀が消滅し、武家、天皇、公家、寺院の首根っこをつかんだ徳川家だったが、いくら支配のためのお膳立てを整えても、徳川家がまとまらなければ盤石な支配はおぼつかない。それは家康がもっとも危惧したことだった。

この状況に心を痛め、江戸城を抜け出して駿府にいる家康のもとに、竹千代を世嗣に定めてほしいと直訴したのが乳母の福、のちの春日局だった。