3000前後あった城が170程度にまで減った
まず、閏6月13日に一国一城令を出し、諸大名が本城以外に構える城を破却させた。反逆の芽を摘むためであるのはいうまでもない。主として数多くの大城郭を構える西国大名を対象とし、酒井忠世、土井利勝、安藤重信という奉行衆3人の連署奉書というかたちで通達された。わずか数日で400の城が破却され、最終的には日本に3000前後あった城が170程度にまで減ったとされる。
続いて7月には、一連の法度を発布した。全国の大名に規範を示した武家諸法度、天皇や公家、門跡(皇族や公家が住職を務める特定の寺院)を、幕府の法の統制下に置くための禁中並公家中諸法度、寺院や僧侶を統制する諸宗諸本山諸法度である。
とくに前者二つについては、家康は早くから側近で知恵袋の以心崇伝や林羅山らに命じ、和漢の書物から諸家の古い記録を書写させるなどして準備を重ねており、このタイミングで崇伝に起草させたものだった。また、武家諸法度は、7月7日に能見物のために、秀忠がいる伏見城に集まった大名たちに対し、あえて秀忠の名で交付し、2代将軍の権威づけにも配慮した。
こうして家康は、武家、天皇、公家、寺院のそれぞれに対して厳しい統制基準を定め、いずれの内部にも幕府が介入できる体制を築いたのである。
16人もの子どもをつくったワケ
しかし、それだけでは徳川家の支配が永続する保証にはならない。血筋が途絶えてしまっては元も子もないし、徳川家内部で跡目争いが起きてもいけない。家康はそのことにも配慮を行き届かせていた。
乳幼児の死亡率がきわめて高く、疫病などで命を落とすことも多かった当時、おそらく家康は、秀忠の子息だけで徳川家を維持するのは困難だと考えたのだろう。関ヶ原合戦後の慶長5年(1600)11月に九男の義直、慶長7年の3月に十男の頼宣、慶長8年の8月に十一男の頼房と、精力的に子孫をつくった。
しかも、この3人がのちに徳川御三家を創出し、徳川宗家の血筋が絶えたときには、紀州藩主だった吉宗をはじめ将軍を輩出したのだから、家康のねらいは見事というほかない。
ちなみに、秀忠に長男で庶出子の長丸が生まれたのは慶長6年(1601)2月で(翌年9月に早世している)、竹千代(のちの三代将軍家光)が生まれたのは、家康の十一男、頼房が生まれた翌慶長9年(1604)7月だった。家康は半世紀にわたって子をつくり続けたが、その活動の末期は秀忠と重なっていたのである。
さらには秀忠の子息のことでも、家康は最後まで心配が絶えなかった。