訂正することは生きることの基本

自分の行動を訂正して、外界に合わせていく。それが生きることの基本です。それは動物もやっていることですが、人間はその訂正の能力をとくに発達させたため、意識をもつようになったと考えられます。

ぼくは人類学や脳科学の専門家ではありません。だからあくまでも素人の考えとして聞いてほしいのですが、「いままではこう行動していればうまくいったけれども、状況が変わってうまくいかなくなった、それならばこうしてみればどうだろう」といった、訂正のシミュレーションが意識の起源なのではないでしょうか。そして、最初は意識しながらやっていく行為も、繰り返されて訂正が必要なくなると無意識のなかに沈んでいく。

仲間内の言葉が通じないとき

言葉についても同じことが言えます。「意識しないで話す」と言うと突飛に聞こえるかもしれませんが、ひとは仲間内ではほとんど無意識で言葉や口調を選んでいます。たとえば、リベラル派の仲間内だったら、あまり深く政策について考えなくても、憲法改正や防衛費増額に反対していればなんとかなるわけです。

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ところがそこに保守のひとが紛れ込むとそうはいかない。では日本の安全保障はどうするのですか、と正面切って尋ねられてしまいかねない。ここで「考える」ことが必要になります。そして「いまの言いかたでは伝わらないから、別の話しかたをしよう」と試行錯誤を行うことになる。

前回で述べたように、日本ではそういう試行錯誤を嫌うひとがたくさんいます。誤りを認めたら負けだと思っているからです。けれどもそれはまちがっています。

試行錯誤をすることは主張を曲げることとは違います。環境が変わったので、言いたいことがいままでの表現だと通じなくなった。だから、新しい環境でも通じるように表現を変えるというだけの話です。それが訂正する力です。