8月6日の灯篭流しをやり直させるマスコミ
ぼくがいままで見てきた集団で最悪だったのはマスコミです。本書113ページの写真(画像1)は8月6日の広島です。8月6日は広島に原爆が投下された日です。8月6日の夕方は原爆ドームのすぐそばの川に慰霊のために灯籠を流します。
いつもはたくさんの灯籠を流すんですが、このときはコロナ禍のため規模を縮小して、十数名の市民の代表の方が流すというものでした。会場アナウンスの指示で中学生が灯籠を流そうとしたときに、現場で撮影をしていたマスコミ集団が大きな声で中学生の手を止めさせて、何度かやり直しをさせていました。
ようやく流された灯籠を肩まで川につかったカメラマンがほとんど回収をして、1カ所に集めてみんなで撮影していました。この日の夕刊は各社おなじような写真でした。おなじ場所で固まって撮って、背景に原爆ドーム入れたいからアホみたいに短いレンズ使って、アホみたいにストロボたいて。写真がヘタでダメな上に行動がアホだから終わってるんですよね。写真のための社会じゃないということは、写真を撮る上で肝に銘じなければいけません。写真を撮るときは人の目を気にしたほうがいいです。
撮影者の気持ちと被写体の気持ち
写真のための社会じゃないというのは社会に対しての意識です。今度はもっと狭い範囲で意識しないといけないことについてです。撮影者の気持ちと被写体の気持ちは違うということです。
みなさんは写真を撮りたい人だと思います。もちろんぼくもおなじです。ちょっと考えてみたいんですけど、写真を撮られたいですか? たぶん写真を撮りたい人はいっぱいいるけど、写真を撮られたいという人はあまりいないと思います。ぼくもそうです。
みなさんがカメラを向けるほとんどの被写体も、写真を撮られたくはないってことを意識しましょう。
もちろん写真を撮られたいという人はいます。だけどそれだって相手によります。はっきりいって嫌いな人なんかに絶対撮られたくないんですよ。どんなに写真がうまくても嫌いな人に写真なんか撮られたくないの。好きな人になら写真がヘタでも撮ってもらいたいの。もうちょっといえば、嫌いな人を撮るのだってキツいんです。
だから写真というのは被写体との関係性がうつるものなんです。誰のために写真を撮るのかをよく考えてください。