なかなか言えない「わたしは入りません」

これらを考えると、この母親が希望通り断れるかどうかは、心もとない気がします。PTAを取材する新聞記者の堀内京子さんは、小学校の説明会でひとりの母親として、多くの保護者や教師の面前で手を挙げ、「PTAは入退会自由ですよね?」と質問したときのことを次のように書いています。

「新聞記者の仕事をして20年、社長会見や大臣会見で食い下がることはあった。でも人生の中で、あのPTA説明会でのたった一つの質問ほど、口が乾かわき、舌が思うように回らなかった経験はない」(『PTAモヤモヤの正体』2021、筑摩選書)。

知識・スキル・経験のある人でさえそうなのですから、「よく知らないけどなんとなくイヤだなぁ」と思っている一般の保護者が断るハードルはどれほどでしょう。「参加は任意。だからわたしは入りません」は、それ自体は正しいけれども、なかなかいえない言葉なのです。

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互いの監視はだれのため?

「どうなっても知りませんよ」という言外の意味を持つ、この言葉の背景を考えてみましょう。

そこにあるのは、相互監視の抑圧です。別にこのセリフをいっている人だって、やらなくて済むならPTAなんてやりたくなかったかもしれないのです。もちろん楽しんで、やりたくてやっている人もいるかもしれませんが、そういう場合は断られたって「あらそう、やればおもしろいのに」くらいのもので、「どうなっても知りませんよ」なんて圧力をかけることはないでしょう。自分だってイヤだけど「負担は平等に」という「掟」に逆らわずやってきた、という人が、「ひとりだけ楽をするのは許さない」と隣の人に監視のまなざしを向けるのです。

ところが、それをやってもその人に得はありません。自分の負担が減るわけではないのですから。江戸時代の五人組や、第二次世界大戦下の隣組に明らかなように、相互監視の制度によって利益を得るのは、「掟」を定めるより上位の権力です。この場合、一番ずるいのは、「どうなっても知りませんよ」と互いを監視する個々の人ではなく、自分は何もしなくても目的を達成できる上位権力なのです。

PTAの場合は、「よーし、保護者に互いを監視させて効率よく支配してやれ」と考える「わかりやすい権力者」がどこかにいるわけではないかもしれません。でも、PTAという組織は、実はピラミッド型の全国組織で巨額のお金を動かしており、全体像がわかりにくいところがあります。そこには「保護者の無償の労力提供によって教育支出を抑えながら、それを『子どものため』といいくるめる構造」を、見て取ることができるかもしれません。