「夢」と「安定性」を天秤にかける選手たち

同学年の山本由伸投手(宮崎・都城高)はオリックス4位指名ながら、日本を代表するエースへと成長。ポスティングシステム(入札制度)を利用して移籍を目指すメジャーリーグでは、数百億円規模の契約が予想される。

ドラフト順位に関係なく、活躍によって年俸は青天井で上がっていくが、そういった選手は一握りの世界。そもそも、1位と6位では、契約金や年俸から差をつけられ、与えられるチャンスの回数も違ってくる。山口さんのように、プロで夢を追うよりも、日本の大企業であるJR東日本に入社したほうが、将来の安定性という点でははるかに上だろう。

今年のドラフトでは、高校通算62本塁打の真鍋けいた内野手(広島・広陵高)、東京六大学リーグの名手・熊田任洋とうよう内野手(早稲田大学)が3位までの順位縛りをした。結果的に2人とも指名されることなく、真鍋選手は大学進学、熊田選手はトヨタ自動車に進むことを表明している。来年以降も、自らの将来の“保険”として、順位縛りをする選手が一定数出てくることが予想される。

プロ野球選手がセカンドキャリアを考える上で、アマチュア野球界での現役継続や指導者を目指すのはごく自然な流れだろう。ただ、プロとアマの間には、かつて高い障壁が存在した。

“出禁”が解かれるまで何十年もかかった

1961年のシーズン中、中日が社会人野球の中心打者であった柳川福三外野手を強引に引き抜いた「柳川事件」が引き金となり、社会人側がプロとの関係断絶を宣言。これに日本学生野球協会も同調したことで、プロとアマの交流は長らく途絶えることとなった。いったんプロ入りすれば、アマへの復帰や指導の一切が禁じられた。自分の子どもすら教えるのもままならない、極めていびつな規定は、こうした背景から生まれた。

双方の雪解けは極めてゆっくりと、段階的に進んだ。1984年、教員歴が10年を経過すれば、高校野球部の指導が可能となった。教員歴は1994年に5年、1997年には2年にまで短縮。そして2013年からは、教員免許を持っていなくても、数日間の研修を受ければ、学生野球資格が回復できるように大幅緩和された。

かつてドラフト1位で指名された大越もといさん(元ダイエー)や喜多隆志さん(元ロッテ)、杉本友さん(元オリックスなど)は、教員免許を取得し、それぞれ早鞆高(山口)、興国高(大阪)、宝塚西高(兵庫)の監督に就任。2017年にはプロ野球選手会と国学院大学が「セカンドキャリア特別選考入試」の協定を結び、教員免許取得や野球指導者を目指す元プロの学び直しの機会も提供された。