「サトウキビブーム世代」が大量離農
2020年に沖縄県の経営耕地面積は、15年に比べ21.4%の減少となった。これは、本土復帰する前年の大干ばつとその後の混乱から離農が激化した1970~75年の23.7%減に次ぐ下げ幅だ。
ここまで減った理由の1つが、農業人口の多い世代が高齢化で離農していること。新井さんは1935〜54年生まれの世代を第二次サトウキビブーム世代と呼ぶ。復帰後から1980年代半ばにかけて、サトウキビの生産者価格が大幅に引き上げられた際、離島部を中心に第二次サトウキビブームと呼べる状況が生まれ、就農者が多かったのだ。
ただしブームは10年足らずで収束する。1990年代になるとサトウキビから得られる農家の手取り収入が減り、次の世代の就農は頭打ちになった。
「第二次サトウキビブーム世代が高齢化し、いよいよ農業から退出している。その下でバトンを受ける世代の少なさが表面化した格好だ。さらに本島部では定年後に就農する『定年帰農』が、見えなくなっている」(新井さん)
定年帰農が減った理由としては、「再雇用をはじめ農業以外での高齢者の就業機会が増えたのかもしれない」という。
2020年までの5年間に沖縄県の農業経営体は24.7%減った。その結果、放出された農地を吸収するような経営体が足りず、経営耕地面積まで落ち込んでいる。
サトウキビ畑は近い将来見られなくなるかもしれない
「ユイマール」という沖縄の言葉がある。「ユイ」は「結い」を意味し、助け合いや相互扶助などと訳される。もとはといえば、共同作業で行うサトウキビの収穫こそ、ユイマールだった。
離島を中心に収穫機の導入が進み、収穫は共同作業ではなくなりつつある。そうではあるが、サトウキビにはいまでも共同性が避けがたくついて回る。
新井さんは言う。
「サトウキビで1つ不幸なのは、収穫後すぐに加工しなければならず、製糖工場が近くにあることが必須になること。地域全体の生産量が減って製糖工場が消失したら、個別に意欲ある農家がいても、生産がかなわない。サトウキビに力を入れたい、あるいは減らしたいというのは、農家個人の思いだけでは実現しないんですよね」
地域として一定の生産量がないと、製糖工場は運営できなくなる。製糖工場がなくなっては、サトウキビを生産する意味がない。
「稲作であれば、強力な農家が現れて、乾燥調製施設を自前で持って生産から流通、販売まで自前で行うこともできる。でも、サトウキビでそれをやるのは限界があります」(新井さん)
沖縄でサトウキビを見かけると、濃い緑色の葉をきらめかせて風になびく姿に、すがすがしさを感じる。だが、見た目と違って、その生産の内実は厳しい。
沖縄と同じように、農地の流動化が進まず、農業が儲からない都府県は少なくない。とくに、九州を除く西日本がそうだ。農地の急減に直面する沖縄は、そうした地域の将来を一歩先に体現しているのかもしれない。
サトウキビの交付金単価の高さには、財務省が毎年のように注文を付けている。交付金の財源が未来永劫に確保できるとは限らない。
ほかの作物が台風の被害に遭っても収穫できるサトウキビは本来、農家のリスクを減らす作物のはずだ。このままでは、サトウキビに依存することの方が、大きなリスクになりかねない。
サトウキビで農家が儲かるようになるには、農地の流動化を進め、規模の拡大を促す必要がある。ただし、沖縄本島では優良な農地ほど米軍基地として接収されていて、農地が限られる。
目端の利く農家ほど、果樹や野菜といった面積当たりの収益性が高い作物を作っている。
沖縄は、サトウキビとの向き合い方を考え直す時期に来ているのではないか。