政宗が大坂の陣が始まることを知ったのは通説より早い

ここで政宗は、江戸城にいる15歳(数え年)の嫡男・伊達忠宗ただむねに「ちょうどいいので手紙を送る。そちらでは変わりないか? 〈もしも〉のために備えて、奉行と鉄砲衆200人をそちらに向かわせた。表向きには〈建築作業のため〉ということにしている。徳川秀忠様のお考え通りだ……」というようなことを伝えている。

当時の書状は背景やニュアンスで読み方が異なるので細部の誤読があったら恐縮だが、ここで政宗は秀忠方面からこっそりと豊臣相手の戦争が起きそうなことを伝えてもらっていたのだろう。

さらに言えば、政宗は不穏な情勢を読み取って、江戸城の情報を適宜てきぎ仕入れていたのである。

9月27日に来たのは秀忠方面からの非公式の「飛脚」で、10月7日に来たのは将軍の老中からの正式の使者だったのだ。

政宗の中では、戦いはすでに始まっており、抜け目なく将軍・秀忠とのパイプを強化していた。上杉景勝や佐竹義宣ごときに負けてはいられなかったのである。

10月10日、政宗は寵愛する家臣・片倉重綱を先手に兵を率いて国許くにもとを発った。13日、跡備あとびの伊達安房守も進発。

だが、政宗らが下野国小山に着陣すると、思わぬ客が待ち受けていた。秀頼から派遣された祐筆の和久わく宗友そうゆう是安ぜあん)である。

宗友の父は旧秀吉家臣で、当時は政宗の家臣となっていた。

和休は政宗に「秀頼様が豊臣家と徳川家の仲立ちを頼みたいと言っています……」と申し出た。

鉄砲の数は3430挺で66%という高い鉄砲装備率

だが、内実は豊臣方に味方するよう促す密使で、「秀吉様の御恩を忘れて豊臣家に弓を引けば、世間に顔向けなどできませんぞ」と寝返りを迫っていたのだ。

政宗はのらりくらりと即答を避けて、秀頼からの直書をちゃっかりと将軍・秀忠に送り、江戸への行軍を進め直した。もはや勝負は決まっていた。

江戸では、この短い期間に政宗が軍備を集められるかどうか疑う声があったが、政宗は下総・武蔵の境目である栗橋宿に、約束通りの人数で現れたので、出迎えの江戸横目衆を驚かせた。

17日、江戸に入った政宗は、本多正信らに「思いの外の早いご到着で」と手を取られ、秀忠のもとへ案内された。

10月20日、政宗は仙台から増援に送られた1000騎と合流して、江戸を進発する。

このときの陣立書が伝わるので、見てみよう。

陣立書にある兵の総数は5200人。割と控えめである。だが、注目すべき点がある。先鋒の片倉重綱、伊達宗実、伊達定宗より後方に続く27隊のうち20隊が鉄砲隊で占められているのだ。鉄砲の数は3430挺。なんと66%もの高い鉄砲装備率である。

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