茶々は叔父に当たる信長の弟・織田有楽に影響されたか

しかし、茶々の政治判断の背景に、織田有楽や大野治長らの思惑に左右された面があったことは否定できないように思われる。茶々が且元との関係を修復しようしていた一方で、織田有楽・頼長父子や大野治長は、且元の排除を既定路線とし、さらには江戸幕府との開戦への道を辿っていたのであった。茶々はそうした重臣たちが敷いた路線から、どれだけ自由に判断を示すことができたといえるであろうか。そもそも政治経験に乏しかった茶々が、それらをはねのけて、独自の判断を押し通すことなど無理であったに違いない。

ここにあらためて、関ヶ原合戦後、茶々が且元に対して「自分にはしっかりとした親もおらず、相談できる家臣もいない」といっていた言葉が思い起こされる。関ヶ原合戦後の羽柴家は、且元を除いて、政治能力のある家臣はほとんど一人もいない状態になっていた。そして、且元が退去した後は、且元排除に動いた織田有楽・頼長父子と大野治長の両者が、羽柴家の家政を取り仕切ることになる。しかしその両者にしても、政治経験は乏しく、そのため江戸幕府と充分な交渉を行えるほどの政治能力は認めがたい。

この羽柴家の場合も、充分な政治能力のある家臣がいなければ、大名家の存続は遂げられない、ということの一例といえよう。ましてや主人の茶々・秀頼にしてから、充分な政治経験を有していなかったのである。政権や大名家を存続させるにあたっては、主人にはいかに高度な政治能力が必要であったのか、そこではいかに有能な家臣の存在が必要であったのかということを、あらためて考えさせられる。

大坂夏の陣後、茶々・秀頼・且元が迎えた悲劇的な最期

最後に、茶々・秀頼・且元のその後の動向について、ごくごく簡単にながめておくことにしよう。

且元が羽柴家を去った後は、織田有楽と大野治長が大坂方の総帥となって、幕府との交戦におよぶものとなった。そこでの作戦は、当然ながら籠城戦であった。10月12日、大坂方の軍勢は、幕府の堺奉行が管轄していた和泉国堺を攻め、これを占領した。ここに大坂冬の陣が開幕することになる。

撮影=プレジデントオンライン編集部
現在の大阪城公園、天守閣

これを聞いた且元は、翌日、すぐに茨木城から軍勢を派遣したものの、迎え撃ちにあう羽目になった。さらには、茨木城を攻撃されるような情勢になった。そのため且元は15日、京都所司代の板倉勝重に救援を要請、これをうけて幕府方の軍勢が救援に駆けつけてくることになった。こうして早くも且元は、幕府方として、大坂方と対戦するにいたっている。