茶々は秀頼が関白になれなかったことに衝撃を受けたか

むしろ注目すべきは、公家衆たちが、わずか10歳前後であった秀頼が、関白に任官することがありうると考えていたことだ。

黒田基樹『羽柴家崩壊 茶々と片桐且元の懊悩』(平凡社)

そうすると関白の地位が、武家の場合においては、もはや天皇の後見役というような名目にとらわれるものではなくなっていたことがうかがわれる。武家と公家とでは、同じ関白という地位にあったとしても、その役割はまったく異なるものとなっていた、ということであろう。であるからこそ、わずか10歳前後の秀頼であったにもかかわらず、「豊臣関白家」の格式にあることをもって、関白の任官が可能とみられていたのであろう。

そうするとやはり、茶々にとっては、秀頼が関白ではなく、内大臣に任官したことに大きな落胆を感じたのであろうと思われる。それが再びの「気鬱」となったのかもしれない。その直前に、茶々が家康と何らかの交渉などを行っていたのかどうかまではわからないが、なれない政治交渉に携わっているなかで、大きな落胆があり、気分を激しく悪化させたとすれば、納得できるように思われる。

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