「革命運動」に参加した学生はメディア業界へ流れた

さて革命運動は1969年頃に最高潮に達したが、中心の世代が大学を卒業するのと同時に、潮が引くようにしぼんでしまう。1972年には凄惨せいさんな連合赤軍・山岳ベース事件が起き、中核派や革マル派などが対立して血で血を洗う「内ゲバ」が相次ぐと、一般社会からも呆れられてあっという間に終了してしまった。

団塊の世代の若者たちは、1970年代に入ると就職して、社会へと入っていく。1975年に発表されたユーミン作詞作曲の『「いちご白書」をもう一度』は、この頃の心情を歌った名曲である。

ぼくは無精ひげと髪を伸ばして 学生集会へもときどき出かけた 就職が決まって髪を切ってきたとき もう若くないさと君に言い訳したね

このような「学生集会へもときどき出かけた」程度の学生であれば、普通の就職はできただろう。だが革命運動に強くコミットしていた若者たちは、一般企業への就職に苦労した。その結果、思想的なことに比較的寛容だった新聞やテレビ、出版などのメディア業界に多くが流れ込んでいったと言われている。

このあたりの経緯はわたし自身も新聞記者時代に、革命運動の闘士だった上司や先輩たちから酒の席でさんざんに聞かされた。

「佐藤訪米阻止闘争のときはすごかったなあ」
「そうそう、みんな逮捕されてたいへんだった」
「王子野戦病院闘争ぐらいから、石を砕いて投げるようになったんだよねえ」

そういう話題で、団塊の記者たちは必ず盛り上がっていたのである。

革命運動からマスコミへの人材の大量流入。これが1970年代以降のマスコミの空気を決定づけ、21世紀のいまに至るまで古くさい左派色を色濃く残し続けている遠因ではないか。わたしはそうにらんでいる。

地方公務員や教員も就職口の一つだった

革命運動の就職口になっていたのは、マスコミだけではない。地方公務員や教員、生協もそうだったというのは知る人ぞ知る事実である。わたしが1970年代初めに通っていた愛知県の片田舎の小学校にも、非常に左派色の強い先生がいた。その先生がわたしの学級の担任になったのは、連合赤軍事件の翌年の1973年のことだった。

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先生は道徳の授業で、副読本として北朝鮮の「朝鮮少年団」の活躍を描いた児童小説を選んだ。

北朝鮮の映像では、赤いネッカチーフをした子どもたちが登場することが多い。あれが朝鮮少年団である。配られた道徳の副読本には、少年団の団員たちがみずからの命をもかえりみずに村の危機を救った話などがたくさん掲載されていた。

あるとき、授業中のちょっとした発言が理由でわたしは先生の逆鱗げきりんに触れ、放課後も教室に残されて長く厳しい説教を受けた。先生は副読本を開き、「おまえのやっていることは、この少年団員とは真逆だ。おまえみたいな人間は、決して北朝鮮の少年団には入れない」と、ことば鋭く言いわたされたのを覚えている。

1970年代には、このような政治的な風景が当たり前だったのである。