秀頼は秀吉の後継者となるが6歳の時に秀吉が死去
慶長元年(1596)5月、秀頼は初参内し、この頃から実名「秀頼」を名乗るようになる。翌同2年、参内して、元服し、仮名は父秀吉のそれを踏襲して「藤吉郎」を称し、従四位下・左近衛権少将に叙任され、次いで同中将に昇進している。ここに秀頼の、秀吉後継者としての地位は明確になった。
同3年(1598)4月には、従二位・権中納言に昇進する。官職としては、内大臣徳川家康、大納言前田利家に次ぎ、同じ中納言には小早川秀秋・徳川秀忠・織田秀信・宇喜多秀家・上杉景勝・毛利輝元がいたが、彼らの位階は従三位であったから、秀頼は別格の立場にあることがわかる。しかし8月18日、「太閤」秀吉が死去した。
この時、秀頼はまだ6歳にすぎなかったため、当然ながら政務を執ることはできず、成人までの政務体制として、遺言により、いわゆる「五大老・五奉行制」が組織されることになる。また秀頼は、大坂城を本拠とすることが決められた。
「五大老・五奉行」以外にも秀頼に言上できる立場の武将がいた
そして翌慶長4年(1599)正月に、秀頼は正式に羽柴家の家督を継承し、本拠を大坂城に移した。その際に、同城の勤番体制が定められ、秀頼に直接に言上できるものとして、「五大老・五奉行」と、徳川家康嫡子秀忠、前田利家嫡子利長、それに石川備前守光吉(大谷吉継の妹婿)・石田木工頭正澄(三成の兄)・石川掃部介一宗(宇多頼忠の娘婿、石田三成とは相婿)、そして片桐且元であった。また、詰番衆は二番が編成され、その番頭は杉原伯耆守長房(寧々の伯父杉原家次の子)と大野修理大夫治長(茶々の乳母大蔵卿局の長男)であった(『新修徳川家康文書の研究第二輯』)。
これらが秀頼を直接に支えることになった人々といえる。このうち、石川光吉以下の4名について、福田千鶴氏は「秀頼四人衆」と仮称している(『豊臣秀頼』)。これは4人が、「五大老・五奉行」とその後継者とは別に、秀頼付きの重臣として位置したことを意味している。そしてここに、片桐且元が加えられることになったのである。これ以後、且元は秀頼の重臣として、それを支えていくことになる。