日本が敗けるとは想像していなかった

山田は食堂の「おばさん」の誤解をラジオの調子の悪いことや難解な表現だったこと、あるいは降伏とは一言も言っていないことだけでなく、日本の敗戦が「信じられなかった」からと日記に記している。

1945年8月15日、終戦の詔書を読み上げる玉音放送を聞く日本の民間人たち(写真=“Japan's Longest Day” 1968 英語版、262ページ/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons

山田は玉音放送の意味を理解できた。

「あれはポツダム共同宣言だ。米国、英国、蔣介石の日本に対する無条件降伏要求の宣言をいっているんだ」

食堂の「おばさん」は「く、口惜しい」と一声叫んだ。

戦争終結を知っても解放感はなかった。食堂では「みな、死のごとく沈黙している。ほとんど凄惨せいさんともいうべき数分間であった」。

国民はおそらく勝てるとは思っていなくても、敗ける実感にも乏しかったようである。どんなに戦況が悪化しても、最後のひとりになっても戦う。そのような決意は玉音放送一つで失われた。こうして戦争は終わった。

玉音放送を信じた人は「国賊」扱いに

この敗戦を告げる玉音放送を信じない人々がいた。

長崎県では憲兵隊が隊員をトラックに分乗させて、市民に伝えていた。

「本日のラジオ放送はデマ放送なり敵の謀略に乗ぜられるな軍は益々軍備を堅めつつあり」

新潟県・柏崎市の病院の病床にあったある男性は、玉音放送を聞いても信じようとはしなかった。あるいは鹿児島県・奄美のある村ではふたりの兵隊が郵便局長を詰問していた。「きさまは国賊だ。とんでもないデマを飛ばした。生かしてはおけない。ラジオの放送は敵の謀略とわからぬか」。郵便局長は玉音放送で戦争が終わったことを周囲にもらした。その方が本当だった。

広島から中国大陸に派遣されていたある部隊は、「不穏と恐怖の流言飛語に疑心暗鬼」に陥っていた。それでも「降伏を不満とし、屈従せず同志を糾合して〔寄せ集めて〕祖国を再建せん」との勢いだった。

玉音放送を謀略として信じない人々がいた背景には、8月15日前後の徹底抗戦を呼びかける軍の宣伝ビラの撒布があった。

この日、東京・赤坂の青山四丁目付近で、陸軍将校の同乗するバイクのサイドカーからビラが撒布された。そこには「国体護持」のために本日8月15日の早暁〔夜明け頃〕を期して蹶起けっきし、我ら将兵は全軍将兵ならびに国民各位に告げる旨、記されていた。