茶々が産んだ二人目の男子・秀頼が豊臣家の運命を変える

「二の丸殿の妊娠もめでたいことです」とありますが、実は、この手紙が書かれた日に、茶々は男児を大坂城で産んでいます。その日のうちに、九州の名護屋まで情報が伝わるとは考えづらいので、茶々の出産はまだ知らされていないのでしょう。秀吉は、凱陣して9月25日か26日には、ねねと「ゆるゆるだきやい候て、物がたり申すべく候」と、甘い言葉を書き残しています。

しかし、男児が生まれたことを聞いた秀吉は、この手紙でねねに伝えている9月の凱陣の予定を早めることになります。

1593(文禄2)年8月9日、松浦重政が使者を送り、茶々が男児を出産したことを報告しています。伝達が速かったので、ねねから重政にお礼を言うようにと伝えています。男児の名前は「ひろい」となりました。棄子、拾い子はよく育っという諺から縁起をかついでいます。産んだのは茶々でも、その子供の命名はねねがするように伝えているのです。正妻としてのねねの立場は不変でした。

1597(慶長2)年、戦い続ける日本軍を朝鮮に残し、秀吉は朝鮮に渡航しないまま京都に隠居のための城を造り、9月に秀頼という名を得た息子ひろいとともに転居しました。この城は京都新城と呼ばれ、内裏の仙洞御所内に造られたものです。

『豊臣秀頼像』(写真=養源院所蔵品/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

秀吉の遺言によって一番多い遺産をもらったのは?

その翌年、1598年。ひろいは、数えで6歳になりますが、秀吉は病床に伏してしまいます。

ねねは病床の夫に伏見で付き添い、早期回復のために、神社仏閣に祈祷を依頼します。ねねの相談役の1人、孝蔵主が書いた手紙に、秀吉の病の回復を願うねねからの伝言があります。

この依頼を受け、本腰を入れて祈祷を行った醍醐寺の座主の義演には、その翌日、秀吉の具合が少しよいことが伝えられました。

それでもまた数日後、秀吉の病状は悪化します。

秀吉は遺言で、前田利家、毛利輝元、上杉景勝、宇喜多秀家(八郎)、徳川家康を5大老として、まだ幼い秀頼が成長するまで、大坂城の天守閣を本拠地として5大老が協力して政権を維持するように、誓約書をしたためました。

死が近いことは秀吉自身にも、誰の目にも明らかなことでした。そこで1598年、秀吉の死の直前、次の分配で、ねね、茶々、豪が遺産を取るように指示しました。