好まれたのは「奇品」

1750年頃には、女性の下半身の象徴として二股大根が描かれ、それを鼠が齧るという画像が流行った。夫婦和合・縁結び・子孫繁栄を表す吉祥画である。主人に忠実な番頭や奉公人のことを「白鼠」と呼んだのは、「番頭は鼠のごとし(「ちゅう〈忠〉」と鳴くから)」で、利に賢く主人を富ませるからというわけだ。

さて、いよいよ鼠の飼育・育種についての話に移ろう。明和年間(1764~72)以降、上方を中心にして白鼠の飼育が広がり、斑や月輪など毛色の変わった鼠が持て囃され、高値で取引された。

ここからは安田容子氏の論文「江戸時代後期上方における鼠飼育と奇品の産出」を参考にする。おそらく、鼠の飼育の入門書としては、『養鼠玉のかけはし』(春帆堂主人〈春木幸次〉、1775年)が最初である。

第3章で植物の変わった品種のことを「奇品」と言ったが、同書では毛色の変わった鼠や形・大きさの異なる鼠を「奇品」と呼んでいる。「養鼠家」によってさまざまな「奇品」が作出されたのである。

大坂で起きた交配ブーム

大坂城代の家臣であった池田正樹が『難波噺』の1771年の項に、「当地(大坂)に白鼠を多く見かける。普通の鼠に地鼠を番わせれば白鼠を生ずるという。また、とらふ・紫・その他種々の毛色を生ずるも、皆つくったものである」と書いており、1773年の項では江戸と比較して大坂に白鼠が多いことを強調している。

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江戸では人気がなかった白鼠の育種が大坂を中心に広がり、「奇品」づくりが熱心に行われていたらしい。

また、安永年間(1772~81)半ばに、暦算家であった西村遠里(1718~87)は随筆集『居行子きよこうし後篇』(1779年)で、「近頃、白鼠が多く出て、普通の鼠と変わらないくらいになっている。それに留まらず、熊鼠と名づけられた毛が真っ黒で、上品なものでは喉の下に白い月の輪があるものや、黒白斑のものも見られる。白鼠はもはや珍しくなく、値段も下がり、子どもの慰みものとなっているくらいだから、大黒天のお使いだと尊ぶ人もいなくなった。

元来、黒白の鼠は稀にしかいなかったというのに。世の中の人は、何につけても奇物や珍しいものを好んで弄ぶから、そのことについて巧みな者が、あちこちでその種を探し出して雌雄を交合させて増やしている。黒白の鼠を交合させて斑の鼠を作出するようになって以来、近頃ではたくさん作るようになっている。これは人の手によって、天地自然が造形した自然の働きを奪ってしまうものだ」と書いている。

彼は、「奇品」を作り出す世間の風潮が盛んになったことを、自然の営みを奪う行為だとして非難しているのである。