人を人とも思わない残酷な行動

それから3、4カ月後の話として、こんな逸話も記されている。

「関白は、尾張の国に他に自分の姉妹がいて、貧しい農民であるらしいことを耳にした。そこで彼は己れの血統が賤しいことを打ち消そうとし、姉妹として認めそれ相応の待遇をするからと言い、当人が望みもせぬのに彼女を都へ召喚するように命じた。

その哀れな女は、使者の悪意と欺瞞ぎまんに気が付かず、天から良運と幸福が授けられたものと思いこみ、できるだけの準備をし、幾人かの身内の婦人たちに伴われて都に出向いた。しかるにその姉妹は、入京するやいなやただちに捕縛され、他の婦人たちもことごとく無惨にも斬首されてしまった」

秀吉は「人たらし」で、人心を巧みに掌握したと伝わるが、「人たらし」も他人を利用するための手段で、その実、人を人とも思わない残酷な男だったと思われる。その残忍さはかなりの部分、自身の生まれへのコンプレックスに起因しているのではないか。上記の逸話もそんなことを思わせる。

300人いた女性の正体

この無惨な姉妹の話に続いて、『日本史』には次のような記述がある。これもまた、秀吉が人を人とも思わなかったことの証左になるだろう。

「聞くところによれば、関白は大坂城内だけで、日本全国の諸侯貴顕の娘たちを三百名も側室としてかかえており、それ以外に第一夫人とみとめられる人がいる。彼女はきわめて思慮深く稀有の素質を備えており、他の婦人たちはこの第一夫人に従い、関白はあまりにも大勢の女性をかかえているので彼女と生活を営まないにしても、彼女を奥方と認めている」
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「三百名も側室としてかかえ」といわれても、にわかには信じがたく、筆が滑ったかと想像してもみるが、それにしてはフロイスは、同様の表現を繰り返している。

「羽柴(秀吉)は大坂城に夥しい数の婦女子をかかえていた。彼女たちのうち約五十名は(織田)信長とその息子なる貴公子たちがかつて有していた人たちで、いずれも武将や貴人たちの娘であり、大いに寵愛され、尊敬されてもいたが、これらの婦人たちは誰も皆、羽柴(秀吉)夫人(おね、北政所)の優位を認めていた」