史料に残された「極悪の欲情」の中身
「齢すでに五十を過ぎていながら、肉欲と不品行においてきわめて放縦に振舞い、野望と肉欲が、彼から正常な判断力を奪いとったかに思われた。この極悪の欲情は、彼においては止まるところを知らず、全身を支配していた。
彼は政庁内に大身たちの若い娘たちを三百名も留めているのみならず、訪れて行く種々の城に、また別の多数の娘たちを置いていた。彼がそうしたすべての諸国を訪れる際に、主な目的の一つとしたのは見目麗しい乙女を探し出すことであった」
「彼の権力は絶大だったから、その意に逆らうものとてはなく、彼は、国王や君侯、貴族、平民の娘をば、なんら恥じることも恐れることもなく、またその親たちが流す多くの涙を完全に無視した上で収奪した」
秀吉について記すフロイスの筆致は厳しく、天正15年(1587)にバテレン追放令を発した秀吉への憎悪が反映されていると思われる。
しかし、そもそも『日本史』は、イエズス会の後進が日本で布教する際の資料であり、事実無根を書き連ねてまで秀吉をおとしめる必要がない。同様の記述が繰り返されている以上、おおむね事実なのではないだろうか。
「獣よりも劣ったもの」
極めつきは、イタリア人宣教師のオルガンティーノが、西暦1588年(天正16)3月3日、小豆島でしたためた書状の引用である。
「かくて彼はもはや、人とは申せなくなり、獣よりも劣ったものとなり果てました。けだし彼には、いかなる環境の人に対しても片鱗の愛情すらなく、金銀を取り立てるためには万人を酷使虐待し、人々をば追放に処して、その俸禄所領を没収する有様で、他人の俸禄を横領するのに道理もなにもないのです」
「彼の淫奔な醜行は、いたるところにあるその宮殿を、挙げて一大遊郭に化せしめたほどでありました。美貌の娘や若い婦人で、彼の手から免れ得る者はいませんでした。
すでに彼はその主君信長の二人の娘を妾としており、別の一人は、彼が殺害した越前国王柴田(勝家)殿の息子の妻で、他は五カ国の君主で、彼が現下もっとも恐れている、最大の敵の一人(徳川)家康の息子の妻であります。
彼は信長の息子御本所(織田信雄)殿の娘も同様の目的で囲い、同じく信長が有していたすべての見目よい妾たち、さらに信長の後継者で、信長とともに殺された嗣子城之介殿(織田信忠)の妻も己れのものとしました」