原爆が無邪気にミーム化されてしまった
このように、一つのテーマがSNSなどのネット上でユーザたちに繰り返し「いじられる」ことを「ネットミーム化」と呼ぶ。「#Barbenheimer」で原爆が無邪気にミーム化されたことの背景には、米国のネット社会に原爆というテーマをシリアスに捉える意識、さらに言えば「これは誰かを悲しませる、あるいは怒らせるから避けるべき」というリスク意識が広くは共有されていなかったことがあるだろう。
一口に「米国X(Twitter)ユーザー」、と括ったところで、どこの誰が、どのような経験から「#Barbenheimer」に参加したのかは、人種や性別や年齢も含めてさまざまであることは想像に難くない。それだけに、米国内のごく一般的な認識として原爆がそれほどセンシティブな話題だと捉えられていなかったことが炙り出される。
その下で何十万という民間人が一瞬で存在を吹き飛ばされ、灼熱に焼かれた恐ろしいキノコ雲を、まるでファッションのような軽いもの、デザインの一つとして捉えてしまう感性。これはその犠牲の大きさむごさ、あまりに凄惨な光景、その後何代にも渡る後遺症など、ヒロシマナガサキの悲しみ苦しみが米国民の間で「学習されていない」からだ。あのキノコ雲に対して、特撮ドラマや映画やゲームで敵を吹き飛ばす「ドッカーン」なんて無邪気なナパーム弾爆発のすごく大きいやつ、程度の認識しかないからだ。
この話を茶化せば誰が悲しみ、誰が怒り出すか、を想像できない。
根底に流れる「原爆は正義」の認識
だがそんな彼らも、黒人差別やナチスによるユダヤ人迫害が相手だったなら茶化したりしない。それはBLM(ブラック・ライブズ・マター、米国で起きた黒人差別抗議運動)や、アウシュビッツ収容所などで起きたユダヤ人迫害の歴史再話を通して、被害者たちがしっかりと怒りと悲しみを非当事者に向けても伝え、主張してきたからだ。むごさや理不尽に対する怒りや悲しみが、具体的な像を伴って伝えられているからである。
凄惨な犠牲を生んだ原爆が「ジョークにしてはいけないもの」として伝わっていないのは、米国人の間に「原爆投下は戦争の終結を早めた英断、正義だった」との認識が広く共有されてきたからというのが、大きな理由である。原爆は、軍国主義に狂った日本があれ以上愚かな残虐行為を続けないよう食い止めた必要悪であったとの意見を持つ人は、実は欧米知識層の中にも決して少なくはない。
それは、1995年に米スミソニアン博物館が「原爆展」で核兵器が現代社会に持つ意味をあらためて問い直そうと企画したところ、米国内(特に退役軍人会)からの猛反発で大幅な内容修正を余儀なくされたことからも理解できるだろう。キノコ雲は、広島に原子爆弾「リトルボーイ」を投下したエノラ・ゲイ機と同様、長らく第2次世界大戦におけるアメリカ軍の勝利と栄光の象徴としての役割を果たしてきたのだ。