1980年には世界シェアの80%を独占したが…

日立を辞めた後、紆余うよ曲折の末、辿り着いたところは、経営学研究センターが新設された同志社大学だった。今でいうところの特任教授(当時は専任フェローと呼んだ)のポストに就き、約5年間の任期で、「なぜ、日本のDRAM産業が凋落したのか?」を研究した。その分析結果を要約すると、次のようになる。

日本が強かった1980年代半ば頃、そのDRAMはメインフレーム(汎用はんようの大型コンピュータ)用に使われていた。その時、メインフレームメーカーは、「壊れないDRAM」として25年の長期保証を要求した。驚くことに、日本のDRAMメーカー各社は、本当に25年壊れない超高品質DRAMをつくってしまったのである。それで、世界を席巻し、1980年の中期には世界シェアの80%を独占した。これは、技術の勝利だった。

ところが、1990年代にコンピュータ業界にパラダイムシフトが起き、メインフレームの時代は終焉しゅうえんを迎え、パーソナル・コンピュータ(PC)の時代がやってきた。そのPCの出荷額の増大とともに、韓国のサムスンがDRAMのシェアで急成長してきた。

この時、サムスンは、「PC用に25年保証は必要ない。5年も持てばいい。それよりも、PC用DRAMは安価でなければならない。その上、PCの出荷台数が桁違いに多いから、そのDRAMは安価に大量生産しなければならない」という方針でDRAMを製造し、日本を抜き去ってシェア1位に躍り出た。

ビジネスだけでなく、技術面でも負けてしまった

この時、筆者は日立の半導体工場でDRAMの生産技術に関わっていたが、筆者も、日立も、日本の他のDRAMメーカーも、誰もがPCの出荷額が増大していること、サムスンのDRAMのシェアが急成長していることを知っていた。

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しかし、そうであるにもかかわらず、相変わらず日本のDRAMメーカーは25年壊れない超高品質をつくり続けてしまっていた。その結果、サムスンの安く大量生産する破壊的技術に駆逐されたのである。

日本のDRAM敗戦について、「技術で勝って、ビジネスで負けた」という人がいるが、それは間違っている。日本は、韓国に、技術でもビジネスでも負けたのである。もっと言うと、技術で負けた要因が大きい。

それは、日本が撤退する直前の64メガDRAMのマスク枚数を見てみれば、一目瞭然である。おおむね微細加工の回数を表しているマスク枚数を比較すると、日立29枚、東芝28枚、NEC26枚だったのに対して、韓国勢は20枚くらい、米マイクロンに至っては約半分の15枚でPC用DRAMをつくってしまった。

当然マスク枚数が多いほど、工程数も多くなり、高額な微細加工装置の台数も多くなる。それ故、製造装置の原価がかさみ利益が出ない。その結果、日本のDRAMメーカー各社は大赤字を計上し、撤退に追い込まれていったのである。これは、明らかに、技術の敗北である。