踊りの下手な者を矢で打ち抜く

理由は、信康の体内に流れる松平家の血、すなわち家康の祖父・清康、父・広忠の生命を奪い、さらにそれを必死に封じ込めてはいますが、家康にも確かに流れている、短気でカッとなると抑えが利かなくなる激越な血にありました。

戦場での働きでは、家康がほれぼれするほどの若武者ぶりを発揮した信康でしたが、ときおり尋常ではなくなったといいます。

たとえば、秋の踊りを見物していて、踊りの下手な者、装束のみすぼらしい者をつづけざまに矢で射殺し、鷹狩りに出て、獲物がなかった腹いせに、行きがかりの僧を血祭にあげた、などという話が伝えられています。

さらに、重臣たちを大切にせず、頭ごなしに追い使って、軽々しく振る舞うことも、多々あったようです。家臣たちは内心で、この若殿では徳川家の行く末はおぼつかない、と考えていたのでしょう。

父である家康が健在でなければ、いずれ親族や家臣によって謀殺される運命にあったかもしれません。家康はこの時、浜松城にあって対勝頼戦に忙殺されていました。息子に向き合う余裕がなかったのでしょう。

信長からの尋問は忠次にとって、むしろ渡りに船だったかもしれません。忠次は、信長が意外に思うほど、信康の罪状をスラスラと認めたばかりか、その暴虐な振る舞いを家康も心配している、とまで言及したといいます。

そう聞けば、信長も躊躇は無用です。この瞬間、「すみやかに腹を切らせるよう、三河殿に申し伝えよ」との、信長の断が下りました。

戦国~安土桃山時代の武将、酒井忠次の肖像画(画像=先求院所蔵/PD-Japan/Wikimedia Commons

息子の切腹を決めたワケ

家康は、忠次の報告を静かに聞いていました。家康の選択肢は、二つしかありません。

信長の命令に従うか、従わないか──。

もし、従わなければ、忠次は謀反の旗を挙げるか、あるいは織田家にはしるかもしれません。

そうなれば、いずれ織田軍団が三河に殺到してくるでしょう。家康がわが子可愛さに、家臣たちに絶望的な一戦を強いれば、彼らは織田家に奔るか、次の旗頭として忠次をいただくことに……。

乱世における家臣団は、確かに情義じょうぎを重んじていますが、それは家康につき従うことで、自家や自党の繁栄を期待し、保証してもらうために忠勤を励んでいるに過ぎません。いずれにしても、信長に攻められては、家康は内外に敵を受けて滅亡するしか道はなかったのです。

悩んだ末、家康は信康に切腹を命じ、妻の築山殿については城外へ連れ出し、密かに殺すよう家臣に指示しました。