手をゆっくり動かせて計算が苦手な子のミスを防ぐ
実際、筆算時の定規の使用には、一定の教育効果がある。
まず、当たり前だが、桁が揃いやすくなる。ある程度計算が得意な子には必要ないことなのだが、一方で、指導に苦労する子どもたちは、筆算の位を揃えることがまず難しいのである。
線が曲がっていると、さらに桁がずれやすくなる。特にテスト時のように真っ白な紙に書く場合は、桁がずれやすい。根本的には、運筆時の微細運動の苦手さと粗雑さが合わさって、計算ミス連発、ひいては算数そのものの苦手意識へとつながっている。筆算に定規はそれを防ぐための有効な手だての一つなのである。
ただ、小学校では普段からマス目の入ったノートを使用しているため、マス目にきちんと数字をおさめて書ける子どもにとっては、特段必要ないともいえる。またワークテストでも「ユニバーサルデザイン」の考えでマス目が入っていることがある。
加えて、定規を使うことは手の動きを「ゆっくりにする」というブレーキ効果がある。「スピード重視」の主張とは真逆で、あえてゆっくりすることでうっかりミスを防ぐという手段にもなる。
ここまで読んで「その通りだ」と思った人もいれば「自分(あるいはわが子)には全く必要ない」と感じた人もいるはずである。
ここがポイントである。
学校の教室というのは、本当に「多様」な実態の人間が集まった場である。個々の子どもを見れば、その興味も理解力も行動特性も価値観も何もかもが全く違っている。それらの多様な子どもの集団に対し、教員が一人で指導をするというのが教室という場である。
教室には、突出して理解が早い子どもが1割程度存在するのに対し、ものすごく理解が難しいという子どもが2割程度いるというのが平均的なところである。「平均的」と表現したのは、それが全く当てはまらない集団の場合もありうるからである。
だからどの集団に対しても絶対的な最適解が存在しないのと同様、「最適解」が集団の個に対して一つに定まるということはない。
しかしその前提の上で、指導する時にはとにもかくにもとりあえずの「正解」を示すというのが教える者の仕事でもある。たとえ心の中で「違う考え方も存在する」ことを認めながらも、である。
だから「筆算時には定規を使います」という指導は、ありうる。一方で、その必要がない子どももいるというのが事実である。