「天下布武」「安土」「岐阜」の名付け親
織田信長には参謀らしい参謀は見当たらない。秀吉をはじめとした家臣はいたが、信長の頭脳の一部となるような人物はいなかった。それだけ、信長は自分を頼るところが強かったのだろう。
しかし、例外的に参謀の役目を果たした人間がいた。禅僧の沢彦(たくげん)である。
信長がまだ「うつけ」と呼ばれていた若かりし頃、教育係だったのが、織田家家臣の平手政秀である。その政秀が諫死した際に、信長はその死を悼んで、政秀寺という寺を建てた。このときの開山が、沢彦だ。
沢彦は、信長の1級資料である『信長公記』にさえほとんど登場してこない。私流の言い方をすれば、名を秘すことに成功した名参謀だ。
沢彦が名参謀なのは、その匿名性だけでなく、信長に天下平定の大目標を与えたことにある。バトルではなくウォー全体を見渡し、ウォーの目的、ウォーの後に実現すべきことを、信長に具申しているのだ。
沢彦は、中国の故事に通じていた。信長が美濃国を治め、稲葉山に城を築くとき、その地名を「井の口」から「岐阜」に変えるよう進言している。これは、中国で王の範とされる周の武王に倣ってのことだ。武王は「愛民の政治」を行い、孔子や孟子からも高く評価されている。
その武王が、暴君だった殷の紂王を倒して、周の国を興したのが岐山というところだ。「周の武王が岐山より起こり、天下を定む」と中国故事に言われる。
つまり、沢彦は、信長が稲葉山城を拠点とするに当たって、その地名を「岐阜」とすることで、「あなたは、日本の武王をめざすべきです」と示したのである。城の名前も、稲葉山城から岐阜城に変えた。
ちなみに「岐山」としないで、「岐阜」としたのは、「山」では周囲からの反発が強まるので、「阜(丘の意味)」から始めようという配慮からだ。
美濃国井の口を岐阜と改名したことで、信長はここから天下平定に乗り出すことを、内外に明らかにしたといえる。
さらに重要なのは、沢彦が「天下布武」という考え方を、信長に授けたことだ。信長は、岐阜の地で、「天下布武」という印鑑を使用するようになる。それだけ強く、この思想に共鳴したということだ。
「天下布武」とは、「天下に武政を布く」ということだ。これは、武力によって天下を平定することと取られがちだが、真の意味はもっと深い。
「武」とは、武力、武器を意味するだけでなく、戦いを止(や)めることも含まれている。「武」という文字は、まさに「戈(ほこ)を止める」と書く。
周の武王が、武力で殷を滅ぼした後、愛民の政治を貫いたことも、沢彦は信長に話したはずだ。武王の思想には、次のようなものがある。
・不戦、非戦、嫌戦の姿勢を保つ。
・紛争の解決は、つねに譲歩と話し合い。
・民衆に対しては徳による政治を行い、敵地にもこの徳を及ぼして同化する。
これらは、信長が長く考えていた理念と一致した。意外かもしれないが、信長は決して戦好きではない。このあたりにも、沢彦の影響が見られる。
沢彦は僧侶だから、人を殺すような戦いを良しとしない。やはり平和な世の中をつくりたい。その実現を、信長に託したのだ。後年、信長の居城となった安土城の名前にも、信長の心情が読み取れる。
「安土」とは、「平安楽土」の略なのだ。平安楽土の実現、いってみればユートピア思想が、信長の根底にはある。早くこの国を平和にして、民たちが安心して豊かに暮らせるようにしたい。それが、信長の政治理念だった。
信長は学問嫌いだから、代わりに沢彦が多くの書物を読んで、信長に言い聞かせた。それも、エッセンスだけを伝える。いわば、100ページの本から、最も大切な1行だけを抜き取って、信長に示すのだ。勘の良い信長は、その1行からすべてを見通した。
「天下布武」についても、多くは語らなくても、信長は真の意味について理解しただろう。「平天下」という言葉があるが、
「日本を平らかに運営する」ということだ。信長は、「天下布武」によって、「平天下」を実現させようと考えていた。
信長が美濃・尾張の1地方大名にすぎない頃に、沢彦は天下人としての理想を教えたということだ。そのことが、織田信長を日本有数の英傑までに育てたのだ。
※すべて雑誌掲載当時