光あるところに陰あり。名将いるところに参謀あり。表舞台に決して立たず、情報の収集と分析で集団を勝利へと導く群像たちの実像とは――。

名参謀ではなかった諸葛孔明、真田幸村

参謀タイプの人間に、古くから日本人は強い憧れを持っている。知略や用兵に優れ、実際の作戦を動かしているイメージがあるからだ。将たる人物は、ただ優れた参謀の立てた戦術・戦略を採用するだけで、事足れりというわけである。

作家
童門冬二

1927年、東京生まれ。東京都広報室長・企画調整局長・政策室長などを歴任。79年、作家活動に専念。人間管理と組織運営の要諦や勘所を歴史と重ね合わせた作品で、99年春、勲三等瑞宝章を受章。

こうした参謀像をつくったのは、諸葛孔明によるところが大きい。『三国志』で描かれる諸葛孔明は、まことに格好いい。ちょっとひ弱な君主・劉備に仕えて、強大な魏の曹操を手玉にとる。劉備と呉の孫権を連合させ、長江で曹操を打ち破る「赤壁の戦い」は、諸葛孔明の真骨頂だ。『三国志』を読んだ人の多くが、孔明の活躍に胸躍らせたことだろう。

しかし、私は、諸葛孔明を名参謀とは思わない。なぜなら、孔明がいた蜀の国は、曹操の魏や孫権の呉より早く滅んでいるからだ。孔明が死んだ後とはいえ、三国のなかで、もっとも早く滅ぶような国しかつくれなかったようでは、名参謀とは言えない。

日本人に人気がある真田幸村にしても、参謀としては評価できない。確かに、大坂冬の陣では、大坂城の弱点だった南側に真田丸という出城をつくり、奇襲で家康軍をきりきり舞いさせた。夏の陣では、家康の本陣に切り込み、家康の心胆を寒からしめた。

幸村のように、少数が奇襲や奇策を用いて、多数を翻弄するのは、日本人が好むところである。ところが、これもよく考えてみると、局地戦での勝利にすぎないことがわかる。バトルフィールドの勝利であって、ウォー全体での勝利ではない。バトルフィールドでいくら勝っても、ウォーで勝てなければ意味がないのだ。実際、真田幸村が与した豊臣家は滅んでいる。

参謀というものは、小さな勝利に自己陶酔し、大局を見誤るようでは、その任を果たしていない。諸葛孔明にしても、真田幸村にしても、ドラマのヒーローとしては申し分ないだろうが、結局、国なり家なりを守れず、参謀の任を果たせなかった。

私は、「参謀が表に出ると、家が滅びる」と考えている。参謀は本来、将の頭脳の一部にすぎない。頭脳だけが前面に出て、体がついていかないようでは、本末転倒である。

あくまでも、参謀は将の一部分に徹して、陰に甘んじることが大切なのだ。参謀は匿名でなければいけない。その意味では、歴史に名を残しているような参謀には疑問が残る。

参謀の役割とは、以下のことに尽きる。

・情報を集める。
・その情報を分析する。
・分析した情報のなかから問題点を摘出する。
・問題点について考え、解決策を用意する。
・解決策は、複数の選択肢とする。

ここまでが、参謀がやらなければならないことである。「どの選択肢を選ぶか」という「決断」は、将の仕事だ。参謀には、決断する権限はない。決断権はトップにしかないのだ。この決断権を侵すような参謀は、必ず将をないがしろにして体制を崩し、国や家を危うくする。