光あるところに陰あり。名将いるところに参謀あり。表舞台に決して立たず、情報の収集と分析で集団を勝利へと導く群像たちの実像とは――。
バルチック艦隊をなぜ撃破できたのか
では、私が、参謀として優れていると考える歴史上の人物を紹介しよう。
まずは、秋山真之である。日露戦争の日本海海戦で、ロシアのバルチック艦隊を撃滅させた作戦の立案者だ。
なんだ、有名人じゃないか――。参謀は名を秘すに、反しているじゃないか――。そう感じられる読者もいると思うが、それは違う。
司馬遼太郎が『坂の上の雲』を書くまで、秋山は世間では知られざる存在だった。それを、司馬遼太郎が資料を丹念に発掘して、秋山真之に光を当てたのである。それまで、日本海海戦勝利の立役者は、連合艦隊司令長官の東郷平八郎だった。秋山は、その陰に隠れていた。
作戦参謀として秋山に課せられた使命は、バルチック艦隊を撃滅するというものだった。40隻に及ぶ大艦隊は、ヨーロッパを経ち、遠路ウラジオストック港を目指していた。港に、戦艦や巡洋艦の1隻でも入港させたら、以後日本海での日本軍の輸送は危機にさらされ、中国大陸での作戦遂行ができなくなる。
秋山がバルチック艦隊をウラジオストック港に1隻たりとも逃げ込ませないために立案したのが、「七段構えの戦法」である。第一段は、駆逐艦と水雷艇による夜間奇襲雷撃である。第二段は、翌日昼間の連合艦隊を挙げての砲撃。第三段は、その夜に追撃の雷戦。第四段は、翌日の昼間にバルチック艦隊の残存勢力を追撃。第五段は、さらに夜間の追撃雷撃。第六段は、昼間連合艦隊でウラジオストック港付近まで追撃。第七段は、ウラジオストック港付近に敷設した機雷地域にバルチック艦隊を追い込む。
この七段構えのうち、実際に行われたのは、第二段から第四段までだった。これで、バルチック艦隊は全滅したからだ。もう1つ、秋山が考案したのが「丁字(ていじ)戦法」だ。連合艦隊がバルチック艦隊の目前で大回頭し、敵艦隊の頭を押さえ、逃さないようにするものだ。「東郷ターン」として、今日では知られている。
これらの優れた作戦を考え出したこともさることながら、秋山が見事なのは、自分は東郷平八郎の頭脳の一部分であることに徹したことだ。秋山が練った作戦案のなかで、どれを断行するかは東郷が決断した。
これほど参謀と将が、その役割を立派に果たした例はないだろう。秋山は、東郷が日本海海戦に死を賭して臨んでいたことを知っていた。東郷も、秋山が命がけで脳漿をふりしぼり、作戦を立てていたことを知っていた。その厚い信頼の下で、作戦はつくられ、実行されたのだ。
秋山真之に僅かばかりでも功名心があれば、東郷平八郎は参謀として秋山を信用しなかっただろう。海戦に大勝利しても、その功績は東郷だけのものとなった。
なぜ、秋山はああまで無私でいられたのか。
私は、秋山が松山(愛媛県)に生まれたことが影響しているように思う。松山は今なお儒教と俳句の町である。秋山も祖父、父から儒教の教えを叩き込まれていた。儒教は、孔子や孟子に遡れば、「軍人というのは護民官で、国民を守るのが仕事」という精神につながっている。そこには、天から命じられた職という意識が強い。秋山も、私利私欲ではなく、天命と受け取っていただろう。
さらに、明治の日本人は、外国から最新の知識や技術を学びながらも、日本流にアレンジして取り入れていた。和魂洋芸(才)である。俳句が盛んなことでもわかるように、松山は和魂を大切にする風土だ。秋山も、海外で得た知識を自分なりにこなしたうえで、作戦立案に活かした。だからこそ独創的な作戦が生まれた。
国のために力の限りを尽くして作戦を練る。その後は、将の決断を信頼して任せる。理想的な参謀の姿が、ここにある。