信玄、秀吉を陰で支えた戦国群像

戦国時代のように、世の中が動乱のなかにあるときは、名参謀と称される人物が数多く登場する。だが、前述のような参謀の条件を満たしている人物は、意外に少ない。本当は、もっとたくさんいたのだろうが、「参謀は匿名を旨とする」を守った名参謀ほど、歴史に名を残していないからだ。

そのなかで、私は次の2人こそ、名参謀の名に値すると考えている。武田信玄に仕えた武田典廐(てんきゅう)(信繁)と、豊臣秀吉に仕えた豊臣秀長だ。2人とも、将の弟に当たる。

しかし、2人とも「弟」という立場を鼻にかけたことはなく、むしろ補佐役に徹している。まさに、「功はすべて兄のもの」ということで、目立たない存在だ。

武田信玄の父である武田信虎は、嫡男である信玄より、弟の典廐を寵愛した。だが、典廐は、子供のときから信玄に尽くし、成人すると「信玄公は兄ではない。主人だ。あくまでも忠義な家臣としてお仕えするのだ」と家臣たちに告げている。

実際、常に信玄の陰で支えとなり、武田軍が最大の窮地に陥った第四次川中島の戦いで、討ち死にする。典廐が残した99条の「武田信繁家訓」は、「甲州法度之次第」として、武田家臣団の心得となった。

豊臣秀長(春岳院=写真)

片や、豊臣秀長は、兄秀吉の及ばないところを、カバーし続けた人物だ。秀吉は「ニコポン」と呼ばれるやり方で、現場の人たちの人気を集めた。肩をポンと叩いて「今晩、1杯やらないか」と誘い、「今日は、おまえの子供の誕生日だろう。これを持ってけや」とニコッとやるのだ。

調子のいい兄に対して、弟秀長は相手を優しく取り込むようにして、人望を得た。しかし、決して兄を立てることを忘れなかった。

秀吉が手を焼いていた四国の長宗我部元親と、九州の島津義久を、実際に降伏させたのは秀長である。そのとき秀吉は、京都の聚楽第にいた。

秀長が率いた10万の豊臣軍といっても、直参は僅かで、実態はいろいろな大名軍の寄せ集めだった。その軍勢を率いて、遠く四国や九州に遠征しなければならないのだから、苦労は並大抵でない。秀長の人柄、人望がなければ、成功はおぼつかなかっただろう。しかし、秀長は、戦功はすべて兄秀吉のものとしている。

武田典廐といい、豊臣秀長といい、実に立派な参謀ぶりである。武田信玄には山本勘助、豊臣秀吉には竹中半兵衛という、「スター参謀」がいたが、本物の参謀は典廐であり、秀長であった。