信長が打っていた布石

5月19日、今川義元旗本は桶狭間山(現在地不明)で休憩することにした。作戦が順調なので義元も「【訓読】義元が戈先ほこさきには、天魔・鬼神もたまるべからず、心地ハよし」とうたいを歌わせ、気分上々だったらしい。

『三河記』岩瀬文庫本は「義元ノ近臣五千ニハ不及、三千計ばかりニハ不過」と記しており、兵数3000以下だったと見られる。

その頃、信長は最前線の「中島砦」へ移動して、ここから桶狭間山へ突撃を仕掛けることを考えた。しかし左右の者たちはさすがに無謀と考えて「無理にすかりつき」、信長を制止した。

そこで信長は「【意訳】運は天にありと知らぬか。不利になれば退き、敵の背を見て襲えば崩せる。敵の首は打ち捨てよ。勝てば末代までの名誉となるぞ」と将士たちを説得しようとする。そこへ別方面の小競り合いから戻ってきた者もいたので、彼らにもこれと同じ存念を言い聞かせて「二千に不足(の)御人数」で出馬した。

どれほどの勝算があったか不明だが、ひとつ布石は打っていた。別働隊である。信長は先に別働隊を桶狭間山方面に先遣させて陽動を狙っていた。寡兵の部隊を適度に攻めかからせ、今川軍を挑発していたのである。先の小競り合いから戻ってきた者たちも加わっていたかもしれない。別働隊の駆け引きは効果的だったようだ。

突如起きた奇跡のような現象

桶狭間合戦では織田軍が鉄炮を有効に使用したことが、一次史料の永禄3年8月16日付・安房妙本寺宛・朝比奈親徳書状写に確かめられる。

【訓読】今川義元討ち死に、是非なき次第。御推察過ぎるべからず候、拙者の儀は最前鉄炮ニ当たり、その場に相仕らず候、

今川家臣の朝比奈親徳は、義元が討たれる寸前、鉄炮に負傷させられたため、主君の義元が戦死する時、旗本が崩壊する現場に居合わせられなかったというのだ。ということは、朝比奈隊は義元戦死の現場から離れた戦場にいたことになる。

織田の別働隊と戦っていたのだろう。親徳は織田別働隊から銃撃を仕掛けられ、応戦すべき状況に誘われていたのである。さらにここへ奇跡のような現象が尾張三河国境に迫っていた。突発的な豪雨が降り始めたのである。

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信長公記』首巻(天理本)によればその勢いは極めて強く、沓掛くつかけ城近くの「楠之木、雨ニ東へ降倒ル」ほどの豪雨であった(以後、本項の史料引用は特に説明のない限り同書を使う)。天が信長勝利の確度を高めた。沓掛の倒木を目撃したのは織田別働隊であると見られる。

今川軍は山地にいた。山の陣地は簡素な山城である。今川軍は低地から攻めてくる敵兵に、頭上から銃撃を仕掛けてさえいれば、まず痛手を喰らわない。それに人数も多い。いくつかの部隊が前に出ていたところで大事に至ることなどありえないのだ。ところがその鉄炮と防御陣が、魔法か何かで突然まったく使えなくなったらどうだろうか。

その魔法が降りかかったのである。