女性が男社会で能力を発揮する難しさ
1429年7月17日、シャルル七世はフランス王家の伝統通りランスの大聖堂で王位につきました。ジャンヌが歴史という大舞台に現れてから信じがたいことにわずか4カ月後のことです。王の裾にすがりついて喜びにむせび泣く乙女の姿を見て、誰もが涙したといいます。
ジャンヌの幸運は彼女が理解者、アーサー王の話でたとえれば、ガウェインたちに恵まれていたことにもありました。特にフランス王家よりも裕福だった貴公子ジル・ド・レと、ジャンヌも「優しく美しい私の公爵様」と称えたアランソン公の2人は大親友でした。
皆20~30代のまだ若い騎士たちでしたが、このだれかれかまわず怒鳴り散らす、エキセントリックな娘をおかしがりながらもしっかり支えました。確固とした自分自身の原理原則を持ちながら、自由に生きるジャンヌを、時に眩しく見ることもあったのではないでしょうか。
しかし、シャルルの即位によってジャンヌの歴史上の使命は終わったようです。舞台は神の戦いから、戦後処理も見据えた男たちの複雑なパワーゲームに移り変わっていました。ひょっとしたら、この時、ジャンヌは冒頭の女性だけが持つ切り札を切るべきだったのかもしれません。
時代の流れに取り残された少女は、コンピエーニュの戦いで捕虜となります。そして1431年、イギリスの卑劣な異端裁判の罠によって、ルーアンで刑場の露と消えたのです。まだ19歳でした。
彼女の栄光と悲劇は、女性が男社会で能力を発揮する鍵を示すと共に、そこで生き抜き続けることの難しさも伝えているようです。
処刑から24年後にジャンヌの親友が語ったこと
ジャンヌが死んでから24年後、ジャンヌに下された異端の判決を無効とするために、復権裁判が開かれました。ジャンヌに仕えたナイトたちも名誉回復のため法廷に立ちます。
ただ、ジャンヌの親友の一人だったジル・ド・レはこの法廷に駆けつけることが出来ませんでした。ジャンヌが火刑になったことのショックに精神を病み、復権裁判に先立つ1440年、とんでもない事件をおこして火あぶりにされていたのです。罪状は数百人の少年に対するあまりにも猟奇的な殺人で、後にこの出来事を元に「青髯」の物語が出来ます。
もう一人の親友、アランソン公だけが法廷に立ちました。美貌の若者も、この頃には陰湿な王宮政治に消耗し、汚れた中年になっていました。
彼は少女の掲げる旗の下戦場を駆け巡った、二度と戻らぬ輝きに満ちた青春の日々を、我が事ながら神話の様に語っています。その言葉を以て締めとしたいと思います。
「私たちとジャンヌは戦場では同じ寝藁で眠ることもありました。月明かりのなか、彼女がそっと起きて、鎧を脱ぎ、白い肌をあらわにしたのを見てしまったこともあります。でも、誰も決して淫らな気持ちを抱くことはありませんでした。とても、とても、不思議なことに……」