徳川家の要と言える活躍

大永7年(1527)生まれの忠次は家康より15ほど年長で、家康の父、松平広忠の異母妹をめとっているから、血はつながっていないが家康の叔父にあたる。永禄3年(1560)の桶狭間の合戦以後、松平家(のちの徳川家)の家老を務め、以後、家康の主要な戦いには軒並み参戦したほか、外交などでも中心的な役割を担ってきた。

三河一向一揆の収束後、三河(愛知県東部)の平定が進むと、永禄7年(1564)6月、家康は今川家の東三河支配の拠点だった吉田領(豊橋市)を忠次にあたえた。翌年、まだ今川家のものだった吉田城を攻略すると、忠次を吉田城代にして吉田領の統治を管轄させている。

それからは忠次が東三河の国衆や松平一族を管轄し、軍事的な指揮下に置いたばかりか、彼らに家康の命令を伝え、監督することになった。ちなみに、西三河では同じ役割を石川家成、続いて甥の石川数正が担ったのだが、ともかく、忠次は以後、徳川家臣団をまとめるかなめになったのである。

そういう役割だから、ときに犠牲にも甘んじている。たとえば、家康が信玄と示し合わせて今川領に侵攻した際(1568年)は、忠次は武田方との交渉を担当した挙げ句、同盟を結んだ証しに自分の娘を信玄のもとに人質に出すハメになった。その後、懸川城(掛川城)の今川氏真を支援するために進軍していた小田原の北条氏と和睦し、懸川城を開城させたときも、忠次が北条側に人質を出している。

静岡県掛川市の掛川城(画像=Dandy1022/CC-BY-SA-4.0/Wikimedia Commons

信長が絶賛した攻撃センス

一方、戦いにおいての活躍もめざましかった。元亀元年(1570)の姉川の合戦では、朝倉義景の軍に突入して戦いの火蓋を切り、同3年(1572)の三方ヶ原合戦でも、一時は武田方の山県昌景の軍を総崩れ寸前まで追い込んでいる(その後、忠次の軍が総崩れになるのだが)。

伝わるのは勇ましさだけではない。天正3年(1575)、織田と徳川の連合軍が武田勝頼に圧勝した長篠の合戦でのこと。『信長公記』によると、忠次を中心とした別動隊が鷹ノ巣山砦へ奇襲攻撃を加えて陥落させ、さらには長篠城を押さえていた武田軍も敗走させた。

このため武田軍は退路を断たれ、織田・徳川連合軍の餌食になった。『三河物語』では、この奇襲は忠次のアイディアだったとされている。『常山紀談』によれば、信長は忠次のこの活躍を称賛して「前に目あるのみにあらず、後にも目あり」と言ったという。

天正12年(1584)、家康が信長の次男の信雄と組んで豊臣秀吉と戦った小牧・長久手の合戦でも、忠次は先陣を務め、池田恒興と森長可の部隊を襲って撃破。戦いを有利に進めるきっかけをつくった。

ここまで史料等で裏づけられる逸話を列挙したが、忠次が知略と武威の双方に優れていたことを物語るエピソードは、真偽が定かでないものを加えると枚挙にいとまがない。そのうちのいくつかが真実だとすれば、家康はこの筆頭家老にどれだけ助けられたかわからない。