新羅に派遣した使節団の帰国後、都で感染拡大が起こる
豌豆瘡が現れた2年後の天平9(737)年、再び疫病が大宰府を襲います。『続日本紀』は、これを「瘡のできる疫病」と表現しています。2年前の豌豆瘡の免疫が残っていたはずですから、これは天然痘によく似た高熱と発疹を伴う別の感染症、おそらく麻疹であったのかもしれません。予防接種が普及したいまでこそ麻疹は子供の病気ですが、かつては死に至る病でした。
「瘡のできる疫病」が猛威を振るいはじめた大宰府。その1年前の天平8(736)年にその地に到着したのが、聖武天皇が新羅に派遣した使節団一行でした。博多湾を出港した一行は新羅に到着しますが、外交使節としての待遇を受けられず、無念の帰国を遂げます。
帰国途中の対馬で、遣新羅大使であった阿倍継麻呂が病死しています。さらなる発症者を出しながら一行は帰国しますが、ここから都で感染拡大が起こるのです。
中央官庁はロックダウンし、政府の機能は停止した
『日本書紀』をまとめた舎人親王が逝去し、当時の太政官――現在の内閣に相当する機関ですが、その“閣僚メンバー”9人のうち藤原4兄弟を含む5人もこの病で亡くなったため、聖武天皇は「政務停止」を命じます。
中央官庁のロックダウン、日本政府の機能停止です。これを恐れて都から地方へ逃れた人々のなかにおそらく保菌者がいたのでしょう、流行は全国に拡大していきます。
これが天平エピデミックです。当時の日本の人口の25〜35%にあたる100万〜150万人が死んだという推計もありますが、おそらく古代日本における最悪の感染拡大です。
(『続日本紀(上)』講談社学術文庫)