なぜ電車内で化粧をする人があらわれたのか
【塩田】昔は犯罪に走る若者にも感情能力があったのでしょうか。先日、萩原健一主演の『傷だらけの天使』(日本テレビ系)の第1話を見ました。ショーケンは高級時計屋で強盗して逃げる途中、小さな男の子にぶつかって倒してしまう。後日、ショーケンは指名手配中にもかかわらず男の子が住む団地を訪れ、「大丈夫だったか」と声をかけます。あくまでドラマですが、強盗犯なのに他者の痛みに対して感受性が働くという描写は、時代性を反映したものなのでしょうか。
【宮台】90年代半ばにクローズアップ現代で「電車内での化粧やウンコ座り」について話したことだけど、「旅の恥はかき捨て」の言葉通り、「仲間以外はみな風景」という感覚は日本では昔から変わらない。欧米みたいな市民的公共性がなく、所属集団でのポジション取りだけがあるからです。空気を読むのは内輪だけで、外には鈍感。昔と違うのは、かつて内輪が世間大だったのが、縮みに縮んで3人ほどになったことです。
当時は、酒鬼薔薇事件など凶悪な単独少年犯罪が連続する前でした。その後の展開を見ると、「仲間以外はみな風景」の仲間が縮小して、とうとう仲間がいなくなって「すべてが風景」になった。僕のリサーチでは若者の関係性をキャラ&テンプレが覆い始めたのは96年からで、凶悪な単独少年犯罪が連続し始めた時期に被る。要は若者たちが互いを入替不能な汝としてよりも、入替可能なソレとして扱うようになったのです。
入替可能だと感じると人は孤独になる
【宮台】学校でも、学校のデミセとなった家庭でも、「成績が良けりゃ誰でもいいんだろ」的な扱いをされることに関係します。条件付き承認と言います。条件付き承認は無条件的承認と違って承認対象を入替可能にします。入替可能だと感じると孤独になります。無条件的承認だけが自分も社会もOKだという基礎的信頼を与えます。条件付き承認を求めて良い子を演じ続けてきた人は、他人を無条件で承認する力を失います。
実際、今の子たちは友達がいない。親や教員の前で良い子を演じる営みが、キャラ&テンプレの関係に引き継がれたのです。彼らの友達は知り合い以上ではない。僕が小中高時代、友達と悩みを話し合い、深い感情を理解し合い、お前は歪んでいるぞと介入もしました。今は恋愛においてすら心に入られるのを避ける。無条件的承認で自己信頼を構築していないので、自分に価値がないことがバレるのを恐れるからです。
この変化は援交取材で気付きました。96年までの援交第1世代は援交を友達に話しました。96年秋以降の援交第2世代は「友達だから変に思われたくなくて言えない」となりました。『まぼろしの郊外 成熟社会を生きる若者たちの行方』(朝日新聞社、1997年)で書いたけど、「それって友達じゃなく、単なる知り合いじゃん」と返したものです。そこにも無条件的承認がない。4年前のクローズアップ現代が「つながり孤独」と表現しました。塩田くんは24歳だけど、同世代はどう?