ただの通路ではなく、主役としての「ストリート」
モータリゼーションが進行した現代、世界中で同様の現象が起きている。例えばタイ・バンコクの中心市街はその典型だ。この街の幹線道路沿いは絶望的なほどに歩きにくい。自動車の交通量がすさまじく、歩道は悪路といっていい状態で、それも寸断されている。ここを快適に歩くためには、モール内とモール間をつなぐデッキを移動するのがよい。バンコクの中心部には驚くほどたくさんの巨大モールが建設されている。つまり、都市計画の不備をモールが補っている。
興味深いのは、世界中のモールが同じように「ストリート」でできていることだ。おそらくぶらぶら歩く楽しみというのは人間にとって根源的なもので、モールはそれを可能にすることで滞在時間を長くし結果として購買を促進する、という戦略をとっている。だからモールは世界中どこでも似ている。このこともたいへんぼくの興味をそそる。同じような気温と湿度。入っている店舗も「ZARA」「MUJI」「Apple Store」といったおなじみの顔ぶれ。人びとの服装も似ている。トイレの位置もだいたい同じだ。世界中にモールがあるのではなく、「モール共和国」が世界中に少しずつ小さな領土を持っているのだ。現代のぼくらは「モール共和国」のパートタイムの市民なのである。
モールが「ストリート」中心である一方、百貨店は「フロア」でできている。フロア平面に店舗が四方に配置され、その周囲に通路がくまなく巡らされている。モールが「ストリート」という往来を中心にできているのと対照的に、百貨店は店の「敷地」が主役だ。百貨店において通路は敷地にアクセスするためのいわばユーティリティである。売上をもたらす「生産地」としての敷地が先行する、という図式は田んぼに似ている。通路はさしずめ「あぜ道」である。モールが街だとしたら、百貨店は田んぼだ。
「内と外が反転した空間」になっている
モールが「ストリート」によって内部に「街」を作っているのだとしたら、その外側はどうなっているのだろう。さきほど、モールへの道すじを思い浮かべてみた。そこで通過するバイパスは人が快適に歩くようにはできていない。バイパスとは、ある地点からある地点へ効率よく移動するためのもので、車内の人びとは車窓の風景を気に留めない。モールに到着すると、そこは広大な駐車場だ。そこはバイパスの延長のようなもので、人が滞在するための場所ではない。そそくさとエントランスをくぐると、もう外は見えない。モールには窓がない。モール内部が街なのだから、その「外」など存在しないのだ。つまりモールは内と外が反転した空間だ。
いわゆる駅ナカはこの点でモールに似ている。列車を降り、コンコースを歩くとそのまま店舗群に到着する。用事が済めば、また列車に乗る。「外」には出ない。駅ナカの外観をじっくり眺める人はいないだろう。そもそも外観と呼べるものが存在するのだろうか。実際、昨今の駅ナカの内装やテナントはモールに似ている。
空港も同じだ。車なり鉄道でアクセスし、一度も外に出ないまま搭乗口から飛行機に乗り込む。成田空港や羽田空港の周辺の街を歩いたことがある人はどれほどいるだろうか。大きな空港には買い物エリアがあるが、その雰囲気はモールと区別が付かない。滑走路は駐車場だ。搭乗口まで基本的に一本のストリートで構成されているという点も、とても似ている。
どこを撮影すれば「モール」を表現できるのか
目的地の空港では出発と逆のプロセスをたどり、やはり一度も外に出ない。空港にはそれが立地する街の名前が付いているが、利用者にとってその名称はただの記号で土地との関連は意識されない。モールと同様、どの国の空港も似ている。「モール共和国」にならって言えば「ターミナル共和国」だ。入国審査前のエリアは文字通り独立国と見ることができる。
工場や団地などを撮ってきたぼくは、このようにしてモールに興味を持つようになって撮り始めた。しかしまったく思ったように撮れない。なぜ撮れなかったのか。工場や団地と同じように、外観を撮ろうとしていたからだ。モールに「外部」はないのだから撮れなくて当然だ。
では、モールはどこを撮ればよいのだろう。吹き抜けだ、と気付くのに少し時間がかかった。吹き抜けは反転した構造物だ。モールという街の「ストリート」の突き当たりに建っている空隙の「建築物」。それが吹き抜けである。かくして世界各地で撮ったモールの吹き抜け写真が、本展覧会の冒頭を飾ることになった。