キーウ中心部にある「GLOBUS」というモール

現在、日本橋髙島屋の高島屋史料館TOKYOで「モールの想像力」と題した展覧会が開催中だ(8月27日まで)。ぼくが監修を務めた。この展覧会はすこし変わっている。フロアの奥まった場所にある小さな展示室に入ると、まず脇に置かれたカゴ台車がお出迎えする。たいていの人がここでちょっと戸惑う。もしかしてトラブル? これはほんらい荷下ろしされた商品や資材、あるいはゴミを運ぶためのもので、展示するようなものではない。

すぐに、これは演出なのだとわかって、ではどこから見始めればいいのだろう、と見回すと、正面に大きな写真があることに気がつくだろう。ショッピングモールの吹き抜けを撮ったものだ。下には「第一章」とある。ここがスタートだ。

キーウ中心部にあるショッピングモールの写真。「モールの想像力」展の冒頭に配されている。
撮影=大山顕
キーウ中心部にあるショッピングモールの写真。「モールの想像力」展の冒頭に配されている。

この写真に小さく添えられたキャプションをちゃんと読む人はそう多くないかもしれない。そこにはこうある。「GLOBUS,Kyiv,2016」。2016年に撮影した、キーウ中心部にある「GLOBUS」というモールの写真である。ぼくが撮ったものだ。

「モールの想像力」のタイトルの通り、この展覧会はモールをテーマにしている。いまや生活に欠かせない、ある種「公共施設」ともいえるモール。この展覧会では、モールに関連する映画や漫画、小説、絵画、音楽といった作品から、「モール文化」とでも呼ぶべきものをあぶり出し、同時にモールを通じて「都市とは何か」という大きなテーマについて考えている。ひととおり展示を見てもらえば、なぜ表舞台には出てこないはずのカゴ台車がこのように置かれているかがわかるはず。先回りして言えば、モール、ひいては都市の「バックヤード」について考えようとしている。

モールと百貨店の違いはどこにあるのか

それにしても、髙島屋といえば百貨店の老舗中の老舗。そこでモールの展覧会をやるとはどういうことだろう、と思うだろう。監修にたずさわったぼくも、はじめはそう思った。ただ、二子玉川の玉川髙島屋ショッピングセンターは、日本で最初の本格的なモールと言われている(1969年オープン)。この点で、髙島屋はモールに関する展示を行う場所としてうってつけなのである。

いま、何気なく「百貨店とモールは異なる」という前提で話をしたが、実際、モールと百貨店の違いはどこにあるのだろうか。事業の形態で区別するなら、デパートは小売り業者で、モールは不動産賃貸業者とでもいうべきだ。モールはテナントに場所を貸すことを商売にしている。そのほか、両者はさまざまな観点から区別できるが、ぼくが定義するとしたら、モールが「道」でできているのに対し、百貨店は「敷地」でできている、というものになる。まずはその話をしよう。

キーウの独立広場。この地下にモール「GLOBUS」はある(2016年撮影)
撮影=大山顕
キーウの独立広場。この地下にモール「GLOBUS」はある(2016年撮影)

なぜ「ヴィーナスフォート」には夕暮れがあったのか

典型的なモールの動線は基本的に大きな一本の通路で作られている。しばしば「ストリート」と名付けられるその通路の両脇に店舗が並ぶ。これは商店街に似ている。かつて、古き良き商店街と大規模商業施設は対立するものとして語られたりもしたが、ぶらぶら歩きを可能にする、という形式からみればモールは商店街の後継者だと思う。

この「道」によって、モールはその内部に街をつくっている。モール内はいわゆる単純な「屋内」ではない。そこにぼくは興味を覚える。その証拠に、モールの名称にはしばしば「シティ」が含まれる。吹き抜け空間には「空」や「風」「水」といったネーミングがほどこされ、前述したように広い通路は「ストリート」だ。

先頃閉業してしまったお台場のモール「ヴィーナスフォート」はその好例だった。ヨーロッパ風の街並みを再現し、吹き抜けにはイタリア風の広場と噴水。天井には空が描かれて、時間によって夕暮れの色に変化するなど、まるで外部かのように見せていた。

モールまでの道のりを想像してみよう。家を出て車に乗り、バイパス道路を走った先に巨大な駐車場に囲まれたモールがある。自分の脚で歩くのはモールに到着してからだ。車という居間の延長を介して、家のドアはモールの入口につながっている。モールの入口は「外」への「出口」だ。

東京や大阪の中心部といった大都市を例外として、日本のほとんどの地方都市・郊外において、人びとにぶらぶらと散策できる街路を提供しているのはモールだ。実際、広い工場跡地が再開発される際、自治体によってその敷地に都市計画道路が敷かれて車が行き来するようになるより、まるごとモールになったほうが歩行者にとって理想的な街路になる、ということがありうる。