サーカスにいた14年間と動物園にいた19年間の違い

弘前で5年間を過ごした後、美一さんは那須町のモンキーパークで働き始めた。

「最初は園の餌売りおばさんだったのよ」と彼女は笑う。だが、自宅の本棚を見ると、就職してからの彼女が多くの専門書を読み、園での経験を自身のキャリアへと粘り強く繋げてきたのは明らかだった。

彼女が那須モンキーパークで師と仰いだのは、園長だった堀浩さんという動物学の研究者だった。週に一度だけ園にやってくる堀氏が昼食をとる際の一時間で、彼女は一週間分の質問をして教えを受けたと振り返る。そうして知識と経験を積み重ねながら園内での立場を得ていったのだ。次第に彼女はレストランのなかでの動物パフォーマンスや事務の仕事にも携わるようになり、最終的には「常務」として那須サファリパークとモンキーパークの統括をすることになったのである。

「わたしにとってサーカスにいた14年間は、もちろん何物にも代え難い時間」と美一さんは言った。

「おかげでいま、こうやってその時に出会った連くんが大人になって、わたしの話を聞きにもきてくれる。昔、世話になったと言ってくれる人もいる。それに、サーカスにいましたという話は、誰かに自分を印象づける上でもとても役に立ったものね」

でも、それはそれで一区切り――。

彼女はそう言うと、目を細めて少しだけ微笑んだ。

「それからの19年間の動物園勤めが、わたしの人格形成に大きく影響したと思っている。たくさんの動物たちの命を通して、幼かった自分を大人にしてもらった、っていう気がするから。それで今は老人ホームにいて、人間の生の最期の期間を間近で見ていると、この世の中で自分が生きてきたということにどんな意味があったかを学びなさい、と神様から言われているような気持ちになるの」

彼女の見た最後のキグレサーカスの姿

キグレサーカスが負債を抱えて廃業したのは2010年。盛岡公演が最後の公演となった。

彼女はその知らせをサーカスの幹部から電話で受けた。キグレサーカスには、勤務するモンキーパークの猿山から、三匹のサルを提供していた。その子たちを引き取って欲しいという連絡だった。

稲泉連『サーカスの子』(講談社)

「他には何がいるの?」
「あとはポニーが一頭いる」
「分かった。すぐに迎えに行くから待ってて」

そんなやり取りのあと、美一さんは本社である東北サファリパークの社長の許可を取り、すぐさまトラックを手配した。

運転手やスタッフと近くのインターチェンジで合流し、動物を運ぶためのワンボックスをトラックの荷台に載せた。それは同社でゼロからキャリアを積み上げてきた彼女の行動力の為せる技であった。

盛岡の公演地に着くと、サーカスはもぬけの殻になっていた。大天幕やあの親しんだテント村もそのままで、人だけがいなくなっていた。ワイヤーや金属を回収する業者が作業をしている横で、後片付けをしている若い男だけがサーカスの関係者であるようだった。

三匹のサルとポニーを車に回収すると、彼女は何かを懐かしむ時間もなく那須町に帰った。

それが彼女の見た最後のキグレサーカスの姿だった。

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