21歳でサーカスに入り、ちょうど6年目くらいのこと

それから半年が経ち、二度目のワクチン接種をとうに終えた頃、東京の感染拡大が収束の時期を迎えた。僕は彼女に再び連絡し、仕事が休みの日の午前中に自宅を訪れることになった。

美一さんの家は役場から歩いてすぐの場所にあった。

それはかつて何かの店舗だったという建物で、軒先の広いスペースに机や椅子やいくつかの本棚が置かれていた。奥の玄関からにこやかに迎えてくれた彼女は、少し垂れた目が優し気に見える女性だった。彼女は僕を見ると目を丸くして、「連くんはとても面影が残っているねえ」と言って笑った。

「38年くらい前というと、わたしが20代のときね。21歳でサーカスに入ったから、ちょうど6年目くらいだったのかな」

連くんたちのことはもちろんよく覚えている、と美一さんは続けた。「そうそう、それでわたしが今でも覚えているのは――」

だいすけ、つなき、せいじ、そして、僕――いつもつるんで遊んでいた子供たちの名前を挙げてから、彼女はちょっと可笑しそうにこんな話をした。

「男の子たちの中でも、下っ端のつなきと連くんは最初の頃、いつも小競り合いをしていてね。でも、はっきりと白黒つけないで、ちょっかいを出し合っているだけ。怖いのか何なのか、きちんと喧嘩をしないのよ。それを見ていて、わたしはイライラしちゃってさ」

サーカスの人々は、西暦や年号で自分たちの歴史を語らない

そんなある日のことだ。美一さんはテント村のコンテナの風呂の脱衣所で、僕らが小競り合いしているのを見た。二十代の芸人だった彼女にとって、おそらく僕らは序列を付けられずにいる猿山の子ザルのように見えたのだろう。

「またやってる! そう思って、わたしはパチンとキレちゃってさあ。『おまえらこのやろう。どっちが兄か弟だかここで決着つけろ。美一姉ちゃんがここで見ててやっから』と怒鳴りつけたんだから」

美一さんの少しべらんめえ口調の言葉は、「あのサーカスでの日々は決して夢などではなかったのよ」というふうに僕の心には響いた。そして、彼女との四十年近くという距離が一気に縮まっていくのを感じた。

ふふふと彼女は笑うと、

「連くんがここに何を探しに来たのか、どうして今になってわたしたちに会いたくなったのか、なんとなく分かる気がする」

と、言った。

「あなたたちがサーカスに来る前、『子持ちの女の人が、おたみさんの手伝いで入るんだ』という話を聞いてね。それでやって来たのが、あなたとあなたのお母さんだった。そう、あれはちょうど木更津の時だったわね」

サーカスの人々は、西暦や年号で自分たちの歴史を語らない。「木更津」や「高崎」、「福島にいたとき」という具合に、公演場所で「あの頃」について語る。それが二カ月に一度、公演場所を変える彼らの時間感覚だったからだ。

そうして、僕は美一さんの物語を聞き始めた。