「自分にもサーカスを辞める日が来るんだ」

彼女の経験はかつて日本にあったキグレサーカスという場所の貴重な記録であった。そして、それは僕にとって四十年近くの歳月を経て、今は失われた「故郷」でともに暮らした人と、あらためて出会い直していくような濃密な時間でもあった。

サーカスの曲芸
写真=iStock.com/Sviatlana Lazarenka
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キグレサーカスに来てから7年後、美一さんは長男を産んだ。僕と母が彼女と短い一時期をテント村でともに過ごし、そして、離れて行ってから一年ほどが経った頃のことだ。

駒一さんとの間にそれまで子供ができなかったので、妊娠したときはまだ心の準備ができていなかった、と彼女は言う。医師から妊娠の経過が不安定だと言われ、舞台を降りて弘前の実家に戻った。出産後、乳飲み子を抱えてサーカスに戻ると、何か目に見える風景が少し変わっていた。

「自分にもサーカスを辞める日が来るんだ」

そのとき彼女は初めてそう確信したという。

19歳のとき、ラジオ番組の仕事でキグレサーカスを訪れ、テント村で生まれ育った子供たちに話を聞いた。しきりに胸に浮かんだのは、そのときに感じた気持ちだった。

「インタビューをした子供たちが、大人になったら空中ブランコやトランポリンをやりたいと言っていた姿……。彼らの姿に自分の子供がオーバーラップしたの」

「せめて自分の子供には他の世界を見せないといけない」

無邪気な笑顔でそう言う子供たちに対して、「サーカスの子たちは溌溂としているな」と単に思う人もいるだろう。だが、そのときふと胸に生じたのは、実は自分でも少し意外な感情だったことを彼女は思い出したのだ。

「可哀そうだな」

彼女はそう思ったのである。

サーカスで生まれ育った子供たちは、外の世界を全く知らないんだ――そのことが何だか不憫に感じられた。

自分は高校を卒業するまで弘前で育ち、親元を少しでも早く離れたいと思って東京に出てきた。シンガーソングライターの仕事は確かにつらかったけれど、どこにでも開かれた未来があるという思いこそが人を自由にする。サーカスの子供たちは確かに「自由」に見えた。だが、それは「側幕がわまく」で囲まれたサーカスという小さな環境の中でのみ通用する「自由」だったのではないか。この子供たちは、外の世界にもっと大きな自由の可能性が広がっていることを、この場所にいる限り知る由もなかったのだ――。

もし、彼らが――あるいは、今まさに成長している自分の子供が――普通の小学生であったら、と彼女は思った。わたしの質問には「野球選手になりたい」「トラックの運転手さん」「パン屋さんがいい」というふうに答えたはずだ。しかし、彼らの夢といえばサーカスの芸人になることであり、外の世界への関心はあらかじめ存在していないのだった。

「この場所で育てたら、この子もサーカスの世界の子になってしまう。駒一がそうであったように」

彼女は思った。

「わたしは母親として、せめて自分の子供には他の世界を見せないといけない、他にもいろんな世界があるんだと教えないといけない」