夢の世界である「サーカス」の舞台裏とはどんなものか。ノンフィクション作家の稲泉連さんは、幼いころの1年間、母とともにキグレサーカスで暮らした経験がある。最新刊『サーカスの子』(講談社)では、当時、一緒に暮らした芸人たちをたずねて、記憶と現実を突き合わせている。本書の第1章「終わらない祭りの中で」より、サーカス生まれのスター団員・駒一さんと結婚した美一さんの物語を紹介しよう――。
サーカスで玉乗りをする象
写真=iStock.com/MediaProduction
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彼女の夫は「サーカス生まれの芸人」だった

その日、2021年の10月12日、栃木県那須町にはすでに秋の気配が色濃く漂っていた。

町役場の隣の丸っぽい図書館の建物の駐車場に車を停め、マスクを着けてからドアを開けて外に出る。

ひんやりとした朝の空気に、ちょうど降り始めたばかりの細かな雨が混ざる。その冷たさを感じながら、僕は半年ほど前に出したメールに対する彼女の返事を思い出していた。

連くん
お元気ですか? とても懐かしく思います。
……奇跡のようなということは人生においてそうたくさん起きることではないと思っていましたが、そんなことはなく、意外と身近に起きていて、人生を重ねていくうちに集大成のように突然かたちを表すものなのだろうと思えてきます。
私は早くに父を亡くしたので、長く生きるということにそれほど意味があると考えてはいませんでしたが、こういう結果が時々起きると、長く生きることも悪くないと思えてきます。ここにこうして小さかった連くんが連絡をくれることのようにです。

彼女の名前は井上美一みいちさんという。

僕がキグレサーカスに暮らした一時期、舞台ではガネ(鉄線による綱渡り)や一輪車での曲芸を演じていた「美一ねえちゃん」。女性芸人の中堅を支える存在感のある人だった。彼女の夫は駒一こまいちさんというサーカス生まれの芸人で、カンスー(長いバーを持っての高綱渡り)や空中ブランコで主に目隠し芸を披露していた。

彼女がメールの中で「奇跡」と書いているのは、僕らの再会にいくつかの偶然があったからだった。

数年前、母が唐突に「私は那須で暮らすことにした」と言い、長かった東京での生活をあっさりと捨て、同世代の知人が共同生活を営むサービス付き高齢者向け住宅に引っ越した。美一さんはその住宅に隣接する高齢者福祉施設でヘルパーの仕事をしており、現地での共通の知り合いを通じて、二人は三十数年ぶりに再会を果たした。「キグレサーカスで一緒だった人がお隣にいたのよ!」と驚いて電話をしてきた母に、僕は美一さんの連絡先を聞いた。

ノンフィクションを書くようになって以来、いつか当時の自分がいたサーカスの時間を共有していた人に会い、話を聞いてみたいと思ってきた。僕は彼女にメールを書いた。

一度だけでも「帰りたい場所」があるならば

わずか一年足らずだったサーカスでの日々が、何故か今も胸に強く留まり続けていること。その経験が自分にとって、一つの原点であり続けていると感じていること……。

今から振り返れば、四十年近い歳月が過ぎ去ろうとしている中で、僕はあの頃の自分と同じくらいの年齢の子供を持つ親にもなり、自分自身にかけられた人生の謎のような何かを解きたいと感じ始めたのかもしれない。

だが、メールを送った後、美一さんとすぐに会うわけにはいかなかった。新型コロナウイルスが東京で猛威を振るっており、緊急事態宣言が出ている最中だったからである。

高齢者福祉施設で働いているという美一さんは、今はまだ誰かに会ったり出かけたりはできないけれど――とこう続けていた。

もちろん私でよければ連くんの生きて過ごしてきたことの証人としていろいろお尋ねいただいてけっこうです。私はどこにもいきませんのでどうぞゆっくりお考えください。連くんの今までもとってもお聞きしたいと思います……。

何十年という歳月を経て、それでも「連くん」と親しげに呼んでくれる人がいる――。

僕はそのことにこそばゆさを感じつつも、どこか心に温かいものが流れるのを感じた。もし自分にも心の故郷、あるいは一度だけでも「帰りたい場所」というものがあるのだとしたら、そこには美一さんのような人々がいるのかもしれないな、そんな気持ちが湧いてきたからだった。